新四国曼荼羅 40番、55番 元札所 別宮 大山祇神社

別宮 大山祇神社

新四国曼荼羅霊場 40番

主祭神:大山積大神
社格等:大山祇神社 別宮、旧県社
所在:愛媛県今治市別宮町3丁目6-1

←39番 竹林寺

社伝によれば、大宝3年(703年)、越智玉澄が文武天皇の勅命により大三島・大山祇神社から祭神を越智郡日吉郷に勧請し、大山祇神社の別宮(地御前)としたのに始まる。

和銅5年(712年)に社殿が造営された(これをもって創建とする説もある)。以後、大山祇神社の社家・大祝家の分家の別宮氏が神職を勤めた。
正治年間(1199年-1200年)、大山祇神社の24の僧坊のうちの8坊が別宮に移され、別当寺・大積山光明寺の塔頭とされた。
そして、弘仁年間(810年 - 824年)空海が巡錫のとき当社に参拝し坊で法楽をあげたとされることから、その後、四国八十八箇所が成立したとき札所と定められ、納経は別当の光明寺でされていた。
江戸時代になると海を渡って、大三島の大山祇神社に参拝し別当の神宮寺で納経する熱心な遍路もいた。
その時の江戸時代の納経帳には「日本總鎮守 三島本宮 別當神宮寺」と書かれている。
天文20年(1551年)、落雷で社殿が炎上し、天正3年(1575年)に来島通総により再建された。
僧坊8坊は天正年間(1573年-1592年)に長宗我部氏の軍勢により焼き払われ、後に南光坊のみが再建され当社の別当寺となり、当社に参拝し納経は南光坊でするようになった。
近世は藤堂高虎をはじめとして歴代今治藩主の保護を受けた。
明治初年の神仏分離で当社の本殿に奉安されていた本地大通智勝如来と札所が南光坊へ移され、別当関係は解消された。
昭和12年、社殿新築される。そのとき拝殿は他所に移され絵馬堂として使用された。
昭和20年(1945年)、今治市街地は米軍の空襲を受けて当社の本殿を残しほとんどが焼失したが、絵馬堂となり他所に移されていた元拝殿も焼失を免れた。
そして、再建時、元拝殿を元の位置に戻し再び拝殿となる。



拝殿


御朱印


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