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筑前国 一之宮 筥崎宮

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筥崎宮 筑前国 一之宮 主祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命 筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられる。 御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされている。創建の時期については諸説あり断定することは困難だが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっている。 創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たした。 鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名。 後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿った。 江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはなかった。 明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれている。   地下鉄 箱崎宮駅から地上に出たところにある案内看板 博多湾からは本殿まで長大な参道が続く。参道の手前の箱崎浜一体は、以前は白砂青松とうたわれた美しい海岸線を誇っていたが、博多港修築により1936年には護岸整備され、現在では北側に箱崎埠頭、南側に東浜埠頭と博多港の倉庫などの施設が並び姿を一変させている。 二の鳥居 一の鳥居 一之鳥居は慶長14年(1609)、藩主黒田長政が建立したとその銘にある。この鳥居の柱は三段に切れ、下肥りに台石に続いている。笠木島木(かさぎしまぎ)は1つの石材で造られ、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居であり、「筥崎鳥居」と呼ばれてる。 楼門 文禄3年(1594)筑前領主小早川隆景が建立、三間一戸入母屋造(さんけんいっこいりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)、建坪

太宰府天満宮

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福岡から電車で1時間程度移動して太宰府天満宮を参拝。  太宰府天満宮は、菅原道真(すがわら みちざね)公の御墓所(ごぼしょ)の上にご社殿を造営し、その御神霊(おみたま)を永久にお祀りしている神社。 「学問・至誠・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約1000万人の参拝者が訪れている。 道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになられた。 幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なされた。 しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられた。 門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなった。 延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立された。 その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになった。 長い年月、道真公へのご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れている。 参道 心字池 池が漢字の「心」の字に形造られていることから「心字池」と呼ばれている。 太鼓橋 心字池に架かる御神橋は、太鼓橋・平橋・太鼓橋の三橋からなり、それぞれ過去・現在・未来をあらわしている。 楼門 本殿 道真公の御墓所に延喜5年(905)8月19日、門弟の味酒安行(うまさけ やすゆき)が祠廟(しびょう)を建て、同19年(919)、左大臣 藤原仲平が醍醐天皇の勅令を受けて御社殿を造営した。 その後、兵火などにより数度焼失したが、筑前国主 小早川隆景が5ヶ年かけて造営し、天正19年(1591)に竣工したのが現在の御本殿。 五間社流造(ごけんしゃながれづくり)で檜皮葺の屋根を備え、築400年以上を経過した現在でも桃山時代の豪壮華麗な様式を見事に伝えている。 国の重要文化財に指定されている。 皇后の梅 大正11年(

新四国曼荼羅 50番 高昌寺

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護国山 高昌寺 新四国曼荼羅霊場 50番 宗派:曹洞宗 本尊:聖観音菩薩 住所:愛媛県喜多郡内子町城廻117 ←49番 伊予稲荷神社 →51番 龍澤寺 嘉吉元年(1441年)に防州の大功円忠が常久寺の地に浄久寺を創建した。天文二年(1535年)のとき、曽根高昌がその寺に帰依し寄進し、現在地に移転して堂塔伽藍を整備、彼の死後、護国山高昌寺に改称し隆盛を誇り末寺24ケ寺となった。 文化四年(1807年)、失火により諸堂は灰燼と化すも、本尊と開創の像と山門は難を逃れる。翌年直ちに再建に取り掛かる。その時、大洲藩主加藤泰興の寄進により復活を果たし現在にいたる。なおその再建の際、柳沢村の良質の楠木を賜り各所に使用したため、別名楠木寺と呼ばれる。 伽藍配置が本山永平寺に似ていることから、伊予のミニ永平寺とも称される。 山門 中雀門 仏殿 山門から下ったところにある「石像涅槃仏」 長さ20m、高さ2m、重さは約200tだとか 中国敦煌にある莫高窟の涅槃仏を基に彫像されたもので、石造の涅槃仏としては日本最大級のもの 御朱印

新四国曼荼羅 53番 善福寺(山田薬師)

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潮光山 善福寺 新四国曼荼羅霊場 53番 宗派:曹洞宗 本尊:薬師如来 住所:愛媛県西予市宇和町西山田1889 ←52番 永照寺 →54番 泰平寺 山田薬師(善福寺)は、日本三大薬師」の一つに数えられる。境内にある大岩は、1963年の大雨により落下し、大師堂を押しつぶしたが、堂内にあった大師像は奇跡的にも無事だったそうだ。  山門 本堂(奥)と大師堂(手前) 大岩 この大岩は昭和38年8月の大雨に大音響とともに山より落下し、五間三間の大師堂は岩の下に埋没 奇蹟にもお大師様は怪我一つなくはるかお堂の外にあり ときに山田薬師1,250年祭御開帖に当り、新に大師堂を建立奉安し今昔を偲び礼拝す 大師堂 御朱印