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四国別格二十霊場 18番札所 海岸寺[かいがんじ]

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経納山 迦毘羅衛院 海岸寺 四国別格二十霊場 18番 四国三十六不動尊霊場 31番 讃岐十二支霊場 卯歳守護文殊菩薩札所 本尊:聖観音 御詠歌:遠近(おちこち)と ながめば沖の 走船 ふでや硯の なみぞうつなる 寺院本尊は聖観世音菩薩。大師堂は奥之院と呼ばれ弘法大師誕生仏が本尊で、それぞれに納経所があり、それぞれの本尊の納経をしてもらえる。 大師堂(奥之院) ←17番 神野寺 →19番 香西寺 寺伝によれば、ここは空海(弘法大師)の母親である玉依御前の出身地とされる。更に空海は奈良時代後期の宝亀5年(774年)に当寺奥之院で生まれたとされており、弘法大師出化初因縁(しゅっけしょいんねん)の霊跡と言われる。 平安時代初期の大同2年(807年)空海が本堂を建立して正観音ないし弥勒菩薩を安置したのが当寺院の開創と伝えられている。弘仁6年(816年)には空海が自身の像を刻み、大師堂を建てたことにより奥之院が開かれたとされる。 戦国時代には土佐の戦国大名・長宗我部元親の進攻に遭い天正11年(1583年)には伽藍が焼亡し、天正18年(1590年)より随時再建がなされた。 文化年間(1804年から1818年)には、白方屏風浦が空海の誕生地とし当寺が誕生所と名乗ることを不服とした善通寺との間で誕生所争いが勃発し、ついには江戸幕府の寺社奉行をも巻き込んで、文化13年(1816年)に嵯峨御所の「善通寺は誕生所で当寺は弘法大師出化初因縁の霊跡と称する」との裁決を受ける事態が生じた。 明治16年(1884年)琴平松尾寺多聞院より当寺と合寺の依頼があり、その後、多門院は廃し当寺と合寺した。 明治38年(1905年)本坊の裏の海岸にロシア兵捕虜収容所(善通寺俘虜収容所)が造られ約千名が翌年まで収容された。 【2016年 逆打ち 車遍路】 別格18番札所 海岸寺に着いたとき、雨がパラパラ。 本堂横に、駐車場があったので、あまり濡れることもなく、本堂にたどり着くことが出来ました。 本堂で納経した後、大師堂の場所が分からず、お寺の人に尋ねたら、1度、山門を出て、道の反対にあるとの事。 境内から出て、しばらく歩いても、らしき建物が見えない。 迷ったかもと、不安になっていると、遍路バスツアーの一行が、少し遠くをゾロゾロ。 おかげで、場所は分かりました。 ただ、ここまで大師堂が離れている所は、あまり無いか

77番札所 道隆寺[どうりゅうじ]

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桑多山 明王院 道隆寺 四国八十八霊場 77番 道隆寺 本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:ねがいをば 仏道隆に 入りはてて 菩提の月を 見まくほしさに ←76番 金倉寺 →78番 郷照寺 天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。 そして、第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。 しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返した。 【2016年 逆打ち 車遍路】 大きな道沿いあるので、分かりやすい場所あるのですが 道沿いの駐車場が満車だったため、脇道から入った所にある駐車場へ。 入ってみると、こちらの駐車場のほうが広く、道を挟んで、お遍路グッズを売っていたり、仁王門がありました。 お寺からすると、こっちが正面のようです。 本尊の薬師如来は、目なおし薬師とか 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。

78番札所 郷照寺[ごうしょうじ]

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仏光山 広徳院 郷照寺 四国八十八霊場 78番 郷照寺   本尊:阿弥陀如来 本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん ご詠歌:踊りはね 念仏唱う 道場寺 ひょうしをそろえ 鐘を打つなり ←77番 道隆寺 →79番 天皇寺 寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として開基、当初は道場寺と呼ばれていた。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。 仁寿年間(851年から854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年から987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3か月逗留し踊り念仏の道場を開いた。その後も栄えたが天正の兵火(1576年から1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)高松藩主松平頼重により再興、その時の住持と徳川家の関係により、時宗に属し郷照寺と改称した。このため四国八十八箇所では珍しい異なる2つの宗派が共存する寺になっている。 【2016年 逆打ち 車遍路】 前回は、Google Mapsに案内してもらったら、本堂のある境内の裏側に連れて行かれて、エラい目あったので、今回は、案内先を駐車場に、ちゃんと設定していたのに、今回も迷いました💦 前回、迷ったけど、最終的に行き着けたので油断してたのかもしれません。 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂いて、記念散華を貼る台紙を購入しようとしたら、売り切れとの事。 「もしかしたら、善通寺では、まだ売っているかもしれない」と教えてくれたので、善通寺を参拝する時に聞いてみます。 記念散華は、日本遺産認定を記念して、平成29年5月31日まで、88ヵ所の納経所で御朱印を頂く時に、御影と一緒に各霊場の散華が配られてます。

79番札所 高照院 天皇寺[てんのうじ]

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金華山 天皇寺 高照院 四国八十八霊場 79番 天皇寺 本尊:十一面観音菩薩 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか ご詠歌:十楽の 浮世の中を たづぬべし 天皇さへも さすらひぞある ←78番 郷照寺 →80番 国分寺 伝承によれば、古代に南海の大魚を退治しに向かった讃留霊王ら88人の兵士が大魚に船を呑まれて倒れたとき、横潮明神が金山の麓にある泉の水を持ってあらわれ、その水を兵士に飲ませた。すると、全員が命を吹き返して助かったという。それからこの泉は「八十場(やそば)の霊水」と呼ばれるようになったという。(弥蘇波から転じたとの説もある) その後、寺伝によると、天平年間に行基は、カナヤマビメカナヤマビコが鎮座される金山に薬師如来を本尊とした堂宇を開創し、さらに、空海(弘法大師)が八十場の泉を訪れたとき、荒廃していた堂舎を再興し、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置し、また、薬師如来を刻んで金山ノ薬師として札所となり、それらの霊験著しく七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛、明治初年に廃寺になるまで摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじょうじゅじ)と称した。 寺号の「天皇」は崇徳上皇に因むものである。保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国阿野郡西庄村に配流となり、長寛2年(1164年)の旧暦8月26日に死去した。上皇の亡骸の処遇について京から返事の使者を待つあいだ、金棺を冷たい八十場霊泉に浸し、清水をかけ続けたところ、21日間すぎたのちも上皇の顔はまるで生きているごとくだったという。やがて返事が届いて上皇は荼毘に付された。その年の内に、上皇の霊を鎮めるため二条天皇は、十一面観音が本尊の一仏としてあったこともあり、その跡である此所に崇徳天皇を勧請し御廟が建てられた。また、後嵯峨天皇の宣旨により摩尼珠院は崇徳院永代供養の寺という役割を担わされ別当寺となった。そして、いつの頃か札所は金山薬師から崇徳天皇社とその別当摩尼珠院となった。ゆえに人はみな摩尼珠院妙成就寺は「天皇寺」と呼び、崇徳天皇社は「天皇さん」と親しまれるようになった。また、このあたりを「天皇」という地名で呼ぶようになったが、恐れ多いので「八十場の霊水」から名をとり、現在は「八十場」と呼んでいる。 明治初年の神仏分離令によって摩尼珠院は廃寺となり、

81番札所 白峯寺[しろみねじ]

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綾松山 洞林院 白峯寺 四国八十八霊場 81番 白峯寺 本尊:千手観音菩薩 本尊真言:おん ばさら たらま きりく ご詠歌:霜さむく 露白妙の 寺のうち 御名を称ふる 法の声々 ←80番国分寺 →82番 根香寺 寺伝よれば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)この地に訪れ、白峰山頂(標高337m)に如意宝珠を埋めて、仏に供える水を汲む閼伽井を掘り、衆生救済の請願をし創建した。また、円珍(智証大師)が貞観2年(860年)、山頂に輝く瑠光を見て登頂、そのとき白峯大権現の神託を受け、瀬戸内海に浮かぶ不可思議な光を放つ霊木で千手観世音菩薩を刻み安置したと伝えられている。 後に、長寛2年(1164年)崇徳上皇が讃岐流刑地で没し、遺詔により当寺上の稚児嶽で荼毘に付され陵墓が造られた。その3年後には西行法師が詣で法楽を行った。その後、建久元年(1190年)後鳥羽天皇により、慰霊のため陵墓近くに、崩御までの6年間を過ごした鼓岡の御所である木の丸殿を移築し法華堂が建てられ、さらに、応永21年(1414年)に後小松天皇は上皇の成仏を願い自筆の「頓證寺」と書かれた勅額を奉納し頓証寺殿となった。そして、延宝8年(1680年)には高松藩主により頓証寺殿と勅額門が再建された。 【2016年 逆打ち 車遍路】 国分寺から五色台にある白峯寺へ 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。 本当は、その後、根香寺までの道をドライブしたかったのですが、台風被害で通行止めになってました。 残念。 【2018年 歩き遍路】 本堂と大師堂は、階段の上 本堂 大師堂 境内にある勅額門の向こうは頓証寺殿と白峯御陵 頓証寺殿 中央に、左に鎮守:白峯大権現、右に御念持仏:十一面観世音 天皇、神、仏の三者を一堂で祀る形式は全国的にも他に類を見ない

80番札所 国分寺[こくぶんじ]

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白牛山 千手院 国分寺 四国八十八霊場 80番 国分寺 本尊:千手観音菩薩 本尊真言:おん ばさら たらま きりく ご詠歌:国を分け 野山をしのぎ 寺々に 詣れる人を 助けましませ ←79番 天皇寺 →81番 白峯寺 国分寺は天平13年(741年)聖武天皇が発した国分寺建立の詔により日本各地に建立されたとされ、当寺もその頃の創建と推測される。 寺伝では、行基が千手観世音菩薩を本尊として開基したとされる(現存する本尊像は当時のものではないが、当霊場の江戸期以前作の仏像で、丈六仏は善通寺の薬師如来坐像と当寺本尊のみで、しかも立像であるので四国で最大の大きさである)。史実としての具体的な創建年は定かでない。 『続日本紀』には天平勝宝8年(756年)に「讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜」との記載があり、この頃には整っていたと考えられる。 明徳2年(1391年)、の文献には当寺が西大寺の末寺である旨が記されており、その他の文献から鎌倉末期までには西大寺末となっていたと推測されており現存本堂の建造も西大寺系の僧が関わっていたものと考えられる。 江戸時代には讃岐高松藩主から崇敬され、63石前後の寺領寄進を受けた。 【2016年 逆打ち 車遍路】 別格の2ヶ寺を廻った後は、本日の88ヵ所、1ヶ寺目。 こちらも、変則で81番札所を飛ばして、80番札所 国分寺へ 前回、イン活で来た時は、駐車場が分からず、かなり迷いました。 着いてみれば、山門の目の前が駐車場なので、なんで迷ったのか不思議ですが・・・ 多分、Google Mapsで検索するのが悪いのかと思ってます。 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。

四国別格二十霊場 17番札所 神野寺[かんのじ]

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五穀山 神野寺 四国別格二十霊場 17番 本尊:薬師如来 御詠歌:ちまちだに いまもそそぎて のりのしの 恵みあふるる 満濃の大池 ←16番 萩原寺 →18番 海岸寺 伝承によれば、平安時代前期の弘仁12年(821年)空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅命により満濃池の修復を行ったさい、池の守護として建立したという。なお、空海が護摩法を修したと言われている満濃池の中にある場所は護摩壇岩と呼ばれていて、三か月で修復したと言われる。 中世に入ると、寺は当地の豪族であった矢原氏の保護を受けて隆盛するが1581年(天正9年)、戦国大名の長宗我部元親が矢原氏を攻めたさいの兵火に遭って全焼し(天正9年には既に香川氏は長曾我部の配下にあり、長曾我部が改めて当寺を焼く理由が不明なため真偽は定かではない。この土地はその前の三好と香川・毛利連合軍の戦いの場にも近く、一概に長曾我部が焼いたとは言えない)、長い間廃寺となっていた。なお、当時の本尊であった聖観音立像は近隣の恵光寺に運び出されて祀られたという。 1932年(昭和7年)上里法照を中心に満濃大師会が結成された。空海入定1100年祭の事業として満濃大師会により神野寺の復興が計画され、1934年(昭和9年)に伽藍が完成した。のち、1955年(昭和30年)に満濃池堤防第3次かさ上げ工事が行われることとなり、本堂が現在地に移築された。 2019年10月16日満濃池が国の名勝に指定される。 満濃池の北西岸の堤の向かって右に位置する。石柱門を通過して参道を歩くと正面に本堂がある。本堂向かって左手前の階段を上がった境内上壇に弘法大師銅像が立ち満濃池を望んでいる。納経所は本堂の正面入り口の左側である。 【2016年 逆打ち 車遍路】 別格15番札所 箸蔵寺の後は、国道32号線で北上して、別格17番札所 神野寺に向かいます。 満濃池の北西岸に神野寺はあります。 山門はありません。 本堂で納経した後、大師堂を探しましたが、大師堂はありませんでした その代わりに弘法大師像があり、その前で、ロウソク・線香・納経しました。 納札箱もありませんでした。 納経所で御朱印を頂いて、珠を買いました。