四国別格二十霊場 20番札所 大瀧寺[おおたきじ]

福大山 慈眼院 大瀧寺

四国八十八箇所 総奥の院
四国別格二十霊場 20番

本尊: 西照大権現
御詠歌:霊峰の 岩間にひらく 法の道 厄をながして 衆生ぞすくわる

←19番 香西寺

徳島県美馬市と香川県高松市の境にある大滝山(標高946m)の山頂近くの標高910m辺りにあり、別格二十霊場(四国八十八箇所を含めても)のうちで最も高所に位置する。明治初期の神仏分離以前は西照神社本殿から西へ約50mの同じ壇(標高935m付近)に当寺本堂があった。また、今は不明になったが、当寺の奥之院が山上にあり滝があったとの伝承がある。往時は、阿波の麓から讃岐の麓まで檀家があったと云われ、夏子ダム方向から来る参詣者が多いが、脇町中央方面からの道で来ると、かつて繁栄していたのがわかる。

伝承によれば、奈良時代の神亀3年(726年)に行基が讃岐側から大滝山に登り山上に一宇を建立し阿弥陀三尊を安置したことに始まるとされる。空海は、青年期に「阿国大瀧嶽ニ躋リ攀ヂ(のぼりよぢ)」て求聞持法を修したと自著「三教指帰」に記しているが、この大瀧嶽は当山とも、阿南市の太龍寺(舎心嶽)ともいう。平安時代前期の弘仁6年(815年)に空海が再びこの地を訪れて寺院を再興し、西照大権現の像を安置したといわれる。
天安2年(858年)には聖宝(理源大師)が登り、厄除厄流の大護摩を修法したと伝えられている。
江戸時代には徳島藩家老稲田氏の祈願所となり、高松藩の崇敬も集め、西照大権現堂、龍王堂、護摩堂、観音堂、不動堂、弘法大師御影堂、鐘楼堂があり、ずっと下方の民家からすぐ上がったところに仁王門があり、参道には18基の鳥居があったという。また、東方山中に奥の院熊野十二社大権現があった[1]。しかし、幾度かの火災により多くは失われた。
隣接する西照神社とは神仏混淆の山岳信仰宗教施設「西照権現」として存在していたが、明治初期の神仏分離令により大瀧寺と西照神社とに分離された。
その後、大正時代のリョウガ住職の時代は栄え、大窪寺にも当住職の弟子が派遣されたと云われ、四国八十八箇所88番を打って当寺に訪れた遍路もいたことから四国総奥之院と云われた。今でも、四国別格札所巡りの遍路だけでなく健脚の遍路は当山を歩きで訪れる。

西照権現の由来:空海が弘仁六年再度訪れ祈念をしていると、白髪の翁が忽然と現れ「我是れ汝が遠祖 天忍日命神(あまのおしひのみこと)の使いなり」空海問う「その神跡いずれなりや」翁曰く「即ち此処なり」と古塚を教えて、その形、古き蝦蟇(がま:ガマガエル)と変じて古塚に入りて身を隠す扨てこそ故あらんと此の処に草庵を構えてその霊を祀る。その後その草庵を大瀧寺と改め、その神を西照大権現と号す。

【2016年 逆打ち 車遍路】

今日は振替休日を頂いたので、前回のお遍路の続きをしていきます。
前回は、『88ヵ所逆打ちバスツアー』だったので回れなかった別格からスタート

元々、四国別格二十霊場は、廻る予定ではなかったのですが、仕事の取引先の営業さんから、腕輪念珠を見せてもらってから、少し興味が出てきて、調べていくうちに、どうせ、88ヵ所で四国を廻るんだったら、別格も廻った方が、後で別格だけ廻るより効率が良い事に、気付いて、廻ることにしました。

別格20番札所の大瀧寺は、バスツアーで、既に行った88番札所大窪寺の近くなので、ここに関しては非効率です。

まっ、仕方ないですね

バスツアーの時と同じで脇町ICで高速を降りますが、大窪寺に行く道とは、違う道に進みます。

この大瀧寺ですが、かなり山奥なので、食事・トイレは、済ませておいた方が良いです。

大瀧寺の正面は、こんな感じ。


初め駐車場が、よく分からず、通り過ぎてしまいました

境内は、他の参拝者はいません。

別格になると参拝者は、少ないです。

本堂と大師堂で納経。

88ヵ所と納め札は、異なりますが、納経の方法は、基本的に同じです。

バスツアーと違い、これからは、嫁と二人なので、読経は、ちゃんと出来るか緊張です。

やっぱり、スラスラは無理でした。

特に、光明真言は詰まらず読める気がしません。

『おん あぼきゃ べろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん』

納経所で御朱印を頂き、腕輪念珠用の珠と女珠を、1個ずつ購入しました。



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