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39番 元札所 新四国曼荼羅 56番 石見寺

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浄瑠璃山 東光院 石見寺 新四国曼荼羅霊場 56番 四国88ヶ所霊場 39番 元札所 宗派:真言宗豊山派 本尊:薬師如来 ご詠歌:いくたびも まいるこころは 石見寺(いしみでら) 瑠璃の光も あらたなるらん 住所:高知県四万十市安並4288 ←55番 鳳彩寺 →57番 観音寺 往古は四国八十八ケ所霊場の随一であり第39番札所であったが城下に遍路が入るのを嫌い札所を返上したと伝えられる。また、一条氏の時代には、この寺を比叡山延暦寺にみたてた鎮守寺であった。 縁起によれば、創建は大同年間と記されている。旧中村市を一望出来る場所にあり、山内一帯に、ミニ八十八ケ所があり桜の名所である。 かなり急勾配の登り坂を登ったところの駐車場から階段の上に山門 山門 本堂 大師堂 ぼけ封治榎地蔵 納経所 御朱印

番外札所 月山神社(守月山 月光院 南照寺)

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月山神社(守月山 月光院 南照寺) 番外札所   住所:高知県幡多郡大月町月ヶ丘1443 白鳳時代、役の行者(役小角)が山中で三日月の霊石を発見し月夜見命、倉稲魂命を奉斎したことに始まる。その後、空海(弘法大師)が巡錫し、霊石の前で二十三夜月待の密供を行ったと伝えられている。明治の神仏分離以前は「守月山 月光院 南照寺」と号する勢至菩薩を本尊とする寺であったが、それ以降は月山神社と改称された。 月山神社 社務所 月山神社の隣には大師堂

讃岐国一宮、83番 元札所、新四国曼荼羅 11番 田村神社

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田村神社 讃岐国一宮 新四国曼荼羅霊場 11番 四国八十八ヶ所霊場 83番 元札所 主祭神:倭迹々百襲姫命 ←10番 自性院 →12番 菩提院 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと) 五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)【別名 吉備津彦命(きびつひこのみこと)】 猿田彦大神 天隠山命(あめのかぐやまのみこと) 天五田根命(あめのいたねのみこと) を祭神とし、これを「田村大神」と総称する。 田村大神については、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命のこととされ、近世には、神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社伝創建前は井戸の上に神が祀られていたことから、元々は当地の水神であったとする説もある。 社伝によれば、はじめは現在の奥殿の下にある定水井(さだみずのい)という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたが、和銅2年(709年)に行基によって社殿が創建されたという。 当初は義淵僧正によって大宝年間に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていたが、延宝7年(1679年)に高松藩主であった松平氏により分割された。後に一宮寺は別の地に移された。 延長5年(927年)に『延喜式神名帳』により名神大社に列格され、平安時代末から讃岐国一宮となった。明治4年(1871年)に国幣中社に列格した。 毎週日曜の午前中に朝市が開かれており、社脇の建物では讃岐うどんの店が開かれる。讃岐うどんは香川県の特産・観光資源として有名であるが「田村神社日曜朝市の讃岐うどん」は県内でも珍しい「神社で食べるうどん」として知られている。 さすが一宮だけあって境内は、かなり広い 表参道にある随神門 大鳥居の向こうに本社拝殿 本社拝殿 本社拝殿・奥殿は宝永7年(1710年)の造営で、春日造。奥殿は二重構造で前方は本殿に接続していて、神座があり、その床下に「定水井」と呼ばれる深淵がある。なお、現在、奥殿には垣根で近づくことができず鬱蒼と茂った木々でほとんど見ることはできない。拝殿は明治10年の再建で、入母屋造。 御朱印

79番 元札所 白峰宮

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白峰宮 四国八十八ヶ所霊場 79番 元札所 保元の乱(1156年)によって讃岐国へ配流された崇徳上皇は、長寛2年(1164年)に崩御するまでの9年間を讃岐で過ごした。上皇の崩御後、遺体を当地の清水に浸しておいたところ毎夜この辺りから神光が輝いたことから、二条天皇の宣旨を受け長寛2年(1164年)に造営されたと伝える。後嵯峨天皇の時代には荘園などが施入されている。 江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮・崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、金華山妙成就寺摩尼珠院と一体の存在として四国八十八ヶ所の79番札所であった。 摩尼珠院は行基が創建し、空海(弘法大師)が再興したと伝えられ、崇徳上皇もよく訪れたという。崇徳天皇社が創建されてからしばらく後、後嵯峨天皇の宣旨によりその別当寺となり「天皇寺」と称するようになった。 しかし、明治の神仏分離の折、崇徳院御霊は京都白峯神宮へと戻り、崇徳天皇社は白峰宮となり、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となっている。 また、その時に摩尼珠院は廃寺とされたが、明治20年に筆頭末寺の高照院がその跡に移転し、天皇寺を再興して札所を引き継いだ。現在、白峰宮の三ツ鳥居(三輪鳥居)から社殿に向かう参道の両脇に天皇寺高照院の境内がある。なお、三ツ鳥居には享保19年(1734年)衆力合成惣氏子中と刻まれている。 両側に袖鳥居を持つ「三つ鳥居」と呼ばれる珍しい様式のどっしりとした風格ある構えの鳥居から境内に入ると、手前の敷地の左側に四国八十八ヶ所霊場79番 天皇寺高照院の本堂と大師堂があり、右側には納経所、参道の正面に白峰宮という当時の神仏習合が色濃く残る配置となっている 79番 高照院 天皇寺 鳥居から真っ直ぐ進んだ敷地にある白峰宮 左側には社務所の建物があるが使われてない感じ 白峰宮の隣のプレハブに宮司宅の案内が貼られていた 自分は、先に天皇寺の納経所で、白峰宮の御朱印を宮司宅で頂ける事を聞いていたので、訪問してみた 白峰宮の右側を通り抜けると宮司宅のあり、更に進むと八十場の泉がある この泉には、次のような伝説がある。景行天皇の御代、瀬戸内海の大きな悪魚(海賊だといわれている)を征した日本武尊の皇子、讃留霊王(さるれおう)とその88人の兵士が悪魚の毒にあたって倒れたが、この泉の水を飲んで、全員甦ったといい、八十甦(やそば)の水、八十八場

番外札所 金刀比羅宮

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金刀比羅宮 祭神:大物主命・崇徳天皇 神仏習合により真言宗の象頭山 松尾寺 金光院となり、象頭山 金毘羅大権現と呼ばれた。明治維新の際に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国にある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。 海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。 「一の坂」を登った先にあるのは「大門」 大門 門の中の両側に弓を持つ武者が控える。これより内が境内で、有栖川宮熾仁親王筆の「琴平山」の額が掲げられる。門をくぐると鎌倉時代から特別に境内での営業を許された五軒の五人百姓が加美代飴を売っている ここまで365段。 大門からしばらくは、さっきまでの急な石段がウソのように、なだらかな石畳の道が続きます。 旭社(重要文化財) 天保8年(1837年)に建立された銅瓦葺の二層入母屋造で、金毘羅大権現時代に金堂だった建物で、全体に多くの美しい彫刻がなされている。 高さ約18m。祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神。神仏分離以前の松尾寺の金堂であり、そのあまりの豪華さに江戸時代に参拝した森の石松は本堂と誤り、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられる。本宮を参拝した後に参拝する習わしである。 松尾寺 ここまでの段数は628段。 旭社の右手を進むと、ついに最後の難関です。全行程でも最も急角度の石段が133段も続くという苦行のような坂 785段を登り切ると本殿 本殿 1878年再建。桧皮葺・大社関棟造り。 祭神は 大物主神と崇徳天皇を合祀。 写真を取り忘れ 金比羅神社 御朱印 御本宮と展望台の間には、奥社へ続く道が。奥社まではさらに583段 常磐神社 常磐神社(祠) - 祭神は武雷尊、誉田和気尊 白峰神社 本殿 大正2年建造、流造。祭神は崇徳天皇、待賢門院、大山祇神。 随身門 - 白峯寺頓証寺殿の勅額門から明治31年に移さ

新四国曼荼羅 23番、68番 元札所 琴弾八幡宮

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琴弾八幡宮 新四国曼荼羅霊場 23番 四国八十八ヶ所霊場 68番 元札所  主祭神:応神天皇、神功皇后、玉依姫命 ←22番 密蔵寺 →24番 宗林寺 社伝では、大宝3年(703年)3月、琴弾山で修行していた日証上人が八幡大菩薩の乗った船が近くに漂着したのを見つけ、里人とともに船を山頂に運び祀ったのに始まると伝える。そのとき、船の中から琴の音がしていたことから「琴弾」の社名がある。同時に当社の神宮寺として、後に第69番札所観音寺となる神宮寺を建立した。 大同2年(807年)、四国を行脚中の空海が当社に参拝し、琴弾八幡の本地仏である阿弥陀如来の像を描いて本尊とし、琴弾山神恵院(じんねいん)として四国霊場第68番札所に定めたという。 中世には源氏の崇敬を受けた。源頼義は前九年の役に前に使いを立てて願文を納め、その子の義家は社殿を造営し、神馬を奉納した。義経は屋島の戦いの後に平家追討を祈願して馬と鳥居を奉納し、頼朝は1千貫文の土地を寄進した。 明治の神仏分離により、本地・阿弥陀如来像は観音寺境内の西金堂に移され、琴弾神社と神恵院に分離された。第二次大戦後、琴弾八幡宮と復称した。 大鳥居を抜けると右に参道が続く 381段の階段 本殿 拝殿横を通りぬければ、琴弾公園銭形展望台へ行くことができる。 御朱印