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66番札所 雲辺寺[うんぺんじ]

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巨鼇山 雲辺寺 千手院 四国八十八霊場 66番 雲辺寺   本尊:千手観音菩薩 本尊真言:おん ばさらたらま きりく そわか ご詠歌:はるばると 雲のほとりの 寺にきて つきひを今は ふもとにぞ見る ←65番 三角寺 →67番 大興寺 寺伝によれば、789年(延暦8年)に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得し堂宇を建立したことを起源とする。空海はまた、807年(大同2年)には秘密灌頂の修法を行い、さらに818年(弘仁9年)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、七仏供養を行ったという。後に「四国高野」と呼ばれ、僧侶の修業道場となり、貞観年間(857年から877年)には清和天皇の勅願寺ともなった。 1098年(承徳2年)火災で全山消失するも、その後に鹿を追って当地に入った猟師米成は樹上に現れた観音菩薩の威厳にうたれ発心し堂宇の再建を果たした。 平安末期の中興の祖と云われるにふさわしい願西上人が住職のとき、現存する本尊千手観音と毘沙門天が造られた。 鎌倉時代には、阿波守護の佐々木経高(経蓮)の庇護を受け、七堂伽藍が整えられ関所寺であった。 1311年(応長元年)には、京都西園寺家により寺領が寄進される。 1363年(貞治2年)には足利氏より法華経真読を依頼される。 1577年(天正5年)に土佐を統一し、四国制覇を狙う土佐の戦国大名・長宗我部元親が雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ったという。 1987年(昭和62年)には香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれ、訪れやすい寺となった。 【2016年 逆打ち 車遍路】 本日、9ヶ寺目の66番札所 雲辺寺。 前回は、ナビをロープウェイ乗り場に変更するのを忘れて、目的地が本堂のままだったので、細い山道を、ひたすら登るという失敗をしました。 今回は、ちゃんと、ロープウェイ乗り場に変更して、ロープウェイに乗りました。 往復 2,060円 車だと、かなり時間がかかったのに、ロープウェイだと、7分でした 天気があまり良くなかったので、雲海が出ていて、初めて、ロープウェイで雲の中を通過して、雲の上に出ました。 山門は、比較的新しく、綺麗です。 本堂で納経。 その後、大師堂で納経して、納経所で御朱印を頂きました。 本日は、ここで打ち止め 次回からは

四国別格二十霊場 16番札所 萩原寺[はぎわらじ]

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巨鼇山 地蔵院 萩原寺 四国別格二十霊場 16番 四国三十六不動尊霊場 28番 四国讃州七福之寺 辨財天 本尊:地蔵菩薩 御詠歌:尊くも 火伏をちかふ 地蔵尊 はぎの御山に 世を救ふらむ ←15番 箸蔵寺 →17番 神野寺 香川県内有数の萩の名所である。「萩寺」とも呼ばれ、境内に24種、約2,000株の萩が植えてあり9月中旬から下旬に、いたるところで咲き乱れる。毎年その頃、当寺院を中心に周辺の、萩の丘公園、雲辺寺ロープウェイなどの会場で「萩まつり」が開催され、本堂で琴の演奏会や本堂前広場で茶会が行われる。 寺伝によれば、平安時代初期の大同2年(807年)空海(弘法大師)が建立したという。この時、空海は千手観音と地蔵の2体の菩薩像を刻んだといわれる。千手観音は四国八十八箇所六十六番雲辺寺に、地蔵菩薩は当寺院にそれぞれ安置したと伝えられていて、雲辺寺の前札所である。 開創から約100年後の延喜3年(903年)醍醐天皇の勅旨談義所となった。天慶2年(929年)朱雀天皇は讃州四箇談義所(他は、香西寺・無量寿院・極楽寺)の一か寺に定めた。 室町時代中期の応永年間(1394年 - 1427年)に真恵僧正が中興し、室町幕府の管領・細川勝元の祈願所となった。明応2年(1492年)の記録によれば讃岐、伊予、阿波に280余寺の末寺を従える大寺であったことが窺える。 【2016年 逆打ち 車遍路】 本日、唯一の別格。 別格16番札所 萩原寺。 本堂 駐車場も境内も広かったのですが、屋根の瓦が崩れそうになっている建物もあり、寂れた感じ。 八十八ヵ所と別格では、参拝者の数も全然違うので、収入は、かなり違うんだなと感じました。 本堂と大師堂で納経して、納経所で御朱印を頂き、珠を買いました。 別格の訪問数が少ない時、珠を買うのを忘れそうになります。 【2018年 歩き遍路にて】 入口にある案内看板 仁王門 本堂 大師堂 大門 客殿

67番札所 大興寺[だいこうじ]

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小松尾山 不動光院 大興寺 泉上坊 四国八十八霊場 67番 大興寺 本尊:薬師如来 本尊真言 : おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌 : うえおきし 小松尾寺を ながむれば 法の教えの 風ぞ吹きける ←66番 雲辺寺 →68番 神恵院・69番 観音寺 寺伝によれば、天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立された。その後、最澄の影響で天台宗となる。火災により焼失していた諸堂を、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に現在地より北西約1kmに熊野三所権現を鎮護する霊場として再興し、また、本尊に薬師如来と脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで堂宇を建立し安置したという。その後も東大寺の末寺として真言宗24坊、天台宗12坊の僧堂が連ね、空海と最澄の教えを修行する道場として栄えた。 しかし、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって本堂以外を焼失。慶長年間(1596年 - 1615年)に再建されたものの再び焼亡、本堂は寛保元年(1741年)に建立された。[1]。 また、境内南側の熊野三所権現は明治の神仏分離までは当寺住職が別当を兼ねていた。 昭和の末までは、地元でもっぱら、小松尾寺と呼ばれていた。 【2016年 逆打ち 車遍路】 7ヶ寺目 67番札所 大興寺 裏山側から霊場の方へ降りて行き駐車場の方へ。 山門の前は田んぼの広がる、のどかな雰囲気。 山門の所で、外国人の団体が田んぼの前で写真撮影中。 ちょうど、稲刈り前で、稲穂が、沢山なっていたので、良い感じでした。 本堂と大師堂で納経して納経所へ。 納経所では、先にツアーの納経帳が20冊くらいが山積み 何かと団体に、やられました

68番札所 神恵院[じんねいん]・69番札所 観音寺[かんのんじ]

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琴弾山 神恵院 四国八十八霊場 68番 神恵院 本尊:阿弥陀如来 ご本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん ご詠歌:笛の音も 松吹く風も 琴弾きも 歌うも舞うも 法のこえごえ ←67番 大興寺 法相宗の日証上人が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人は八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を山上に祀り琴弾八幡宮と名付けた。行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年に空海(弘法大師)が訪れ、琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描き本尊として安置し、寺号を七宝山神恵院(じんねいん)とし第68番札所に定めた。   以来明治初期までは神仏習合の神宮寺として琴弾八幡宮が第68番札所であった。しかし明治政府による神仏分離令により琴弾八幡宮は琴弾神社と神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来図も移転に伴い観音寺境内の西金堂(さいこんどう)に移され神恵院本堂となった。2002年、境内の別の場所に神恵院本堂が鉄筋コンクリートで新築され、元の本堂は薬師堂に戻され、その横にあった神恵院大師堂は台風で失われたので、十王堂の右半分が大師堂になっている。 七宝山 観音寺 四国八十八霊場 69番 観音寺 本尊:聖観音 本尊真言:おん あろりきゃ そわか ご詠歌:観音の 大悲の力 強ければ 重き罪をも 引き上げてたべ →70番 本山寺 寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807)空海(弘法大師)が第7世住職として入山し、奈良の興福寺を模して、中金堂(ちゅうこんどう)に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、丈六の薬師如来を納めた西金堂(さいこんどう)や東金堂(とうこんどう)など七堂伽藍を整備し、さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃・珊瑚・瑪瑙などの七宝を埋め地鎮したことから、名称も七宝山観音寺と改め札所のひとつにしたという。 その後、桓武天皇はじめ三代の天皇の勅願所となり、室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が45年間住職を務めるなど隆盛を誇った。 【2016年 逆打ち 車遍路】 本日、5・6ヶ寺目の69番札所 観音寺・68番札所 神恵院。 一つの敷地の中に2札所ありました。 山門から入って、右側の観音寺で納経。 その後、左側の神恵院で納経。 神恵院は、コンクリートの構造で囲われてますが、

70番札所 本山寺[もとやまじ]

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七宝山 持宝院 本山寺 四国八十八霊場 70番 本山寺 本尊:馬頭観音菩薩 本尊真言:おん あみりと どはんば うん はった そわか ご詠歌:もとやまに 誰が植えける 花なれや 春こそたおれ 手向けにぞなる ←69番 観音寺 →71番 弥谷寺 寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。この時、本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。 中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。 天正年間(1573年 - 1593年)、長宗我部氏の戦により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けた。当寺も例外ではなく諸堂を焼失したが、境内に攻め入る兵士を斬られながらも止めようとする住職を振りきり攻め入った兵士が、本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血がしたたり落ちるのを見て驚き、本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したという。その阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれる。 その後、江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され、天保年間(1830年から1844年)には本山寺と改称された。 【2016年 逆打ち 車遍路】 4ヶ寺目 前回、71〜73番札所を終わらせていたので、飛んで、70番札所 本山寺。 五重塔は、改修中で姿を見ることが出来ませんでした。 本堂と大師堂で納経して、納経所で御朱印を頂きました。   【2018年 歩き遍路】 歩き遍路の時にも駐車場側の山門から入る 本堂 五重塔の改修工事は終わってた 大師堂 横の山門から出る 70番 奥之院

74番札所 甲山寺[こうやまじ]

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医王山 多宝院 甲山寺 四国八十八霊場 74番 甲山寺 本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:十二神 味方に持てる 戦には おのれと心 甲山かな ←73番 出釈迦寺 →75番 善通寺 伝説では、壮年期の空海が寺を建立しようと幼きとき遊んだこのあたりを探索していると老翁が現れ、この地にお寺を建立すべしとお告げをした。この地の岩窟に住む毘沙門天の化身と悟った空海はこの岩窟に毘沙門天を祀った。 その後、嵯峨天皇の勅命を受け別当として満濃池の修築を命じられた空海は、この地で薬師如来を刻み修法すると数万の人々が集まり、無事に築造を完成に導いた。弘仁12年(821年)その功績に対して朝廷から二万銭が与えられ、その一部によって堂を建立したのが当寺の始まりであるという。 甲山(標高87.2m)には、室町時代に天霧城の出城があったと云われていて、山頂に石舞台跡があり、頂上には神武天皇孝明天皇震儀石がある。また、当寺から山頂に向かう山道には江戸時代末期に開かれたという西国三十三所の石仏が並んでいる。  【2016年 逆打ち 車遍路】 砕砂工場の横を通りながら、境内横の駐車場へ 前回、廻った時にも感じましたが、工場に隣接する霊場は、ココだけかも 本堂と大師堂で納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。

75番札所 善通寺[ぜんつうじ]、奥之院

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屏風浦 五岳山 誕生院 善通寺 四国八十八霊場 75番 善通寺 本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:我住まば よも消えはてじ 善通寺 深き誓ひの 法のともしび ←74番 甲山寺 →76番金倉寺 空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ、法名善通)から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落成したという。空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓(ふもと)にあることから命名された。 善通寺の文献上の初見は、『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』に収められた寛仁2年(1018年)の「讃岐国善通寺司解」(さぬきのくにぜんつうじしげ)という文書である。ここで善通寺は、東寺の末寺として登場し、「弘法大師御御建立」「大師御霊所」とされ、空海の先祖による創建だとする伝えが古くから存在したことがわかる。境内からは白鳳から奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しており、善通寺は実際には佐伯一族の氏寺として創建されたのではないかと推定されている。 本格的に興隆をむかえるのは鎌倉時代に入って、天皇や上皇からの庇護や荘園の寄進を受けてからである。この保護の背景には、平安後期に広まった弘法大師信仰があり、誕生の地に伝わり大師自筆とされる「瞬目(めひき)大師像」への崇敬がある。建長元年(1249年)には誕生院が建立され、東の伽藍、西の誕生院という現在の形式が出来上がった。鎌倉時代の善通寺の本寺は、東寺、随心院、大覚寺、再び随心院と変転しつつも、室町時代以降は足利氏の庇護を受けつつ自律的経営を目指した。 永禄元年(1558年)三好実休の兵火に遭い伽藍を焼失するが、天正16年(1588年)に生駒親正から28石、生駒一正から35石の寄進を受けたことなどで立ち直る。近世には高松松平家や丸亀京極家の庇護を受けて大いに栄えた。近世の善通寺

76番札所 金倉寺[こんぞうじ]

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鶏足山 宝幢院 金倉寺 四国八十八霊場 76番 金倉寺 本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:まことにも 神仏僧を 開くれば 真言加持の 不思議なりけり ←75番 善通寺 →77番 道隆寺 円珍の生誕地として知られ、明治期には乃木希典が客殿を仮住まいにしていた時期があり、客殿には乃木ゆかりの品々が展示され、境内には銅像もある。 712年(和銅5年)正月1日景行天皇の子孫の道善が金輪如意(如意輪観音)を祀って自在王堂を建て、道善寺と呼ばれていた。 その後、円珍(智証大師)が846年(承和13年)入唐、858年(天安2年)帰朝し、仁寿元年に和気宅成の上奏により、道善寺の敷地を賜り、859年(貞観元年)金蔵寺と改める。928年(延長6年)醍醐天皇の勅命により「金倉郷(当時の地名)」から名前をとり現在の「金倉寺」と改名したとされる。 【2016年 逆打ち 車遍路】 今日も振替休日を頂いたので、お遍路 初回のバスツアーを含めると4日目 そろそろ、香川を終わらせたい というわけで、がもううどんを頂いた後、本日の1ヵ寺目 本堂で納経した後、大師堂へ ここの大師堂は、中央に「智証大師」を祀ってます。 右に「弘法大師」が脇仏で安置されてます。 大師堂で、弘法大師を中央に祀ってないのは、ここだけ 大師堂でも納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。 【2018年 歩き遍路】 歩きの場合は仁王門から境内に入ります 本堂 大師堂

73番札所 出釈迦寺[しゅっしゃかじ]

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我拝師山 求聞持院 出釈迦寺 四国八十八霊場 73番 出釈迦寺 本尊:釈迦如来 本尊真言:のうまく さんまんだ ぼだなん ばく ご詠歌:迷ひぬる 六道衆生 救はんと 尊き山に いづる釈迦寺 ←72番 曼荼羅寺 →74番 甲山寺 寺伝によれば、空海(弘法大師)が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)(現、我拝師山)に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと飛び降りた。すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。 現在の当寺の奥之院である山上のお寺は、曼陀羅寺の奥之院であったが、1600年代半ばに我拝師山の麓に寺が建立され。山上が札所であるが麓の寺でも納経するようになっていた。しかし、1920年(大正9年)に札所は麓の寺に移された。 【2016年 逆打ち 車遍路】 73番札所 出釈迦寺の山門に着いたのが、16時40分。 納経所で、先に御朱印を頂いてから、本堂に向かいました。   今日は、ここで打ち止め 別格3つと88ヵ所7つの計10ヶ寺を廻ることが出来ました。 【2018年 歩き遍路】 納経所の向こうに見える山の上の方に、奥の院 捨身ヶ嶽の屋根が見える 次回、チャレンジ予定 73番 奥之院

72番札所 曼荼羅寺[まんだらじ]

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我拝師山 延命院 曼荼羅寺 四国八十八霊場 72番 曼荼羅寺 本尊:大日如来 本尊真言:おん あびらうんけん ばさらだどばん ご詠歌:わずかにも 曼荼羅おがむ 人はただ ふたたびみたび 帰らざらまし ←71番 弥谷寺 →73番 出釈迦寺 寺伝によれば、空海(弘法大師)の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古天皇4年(596年)に創建され、当初は世坂寺(よさかじ)と称したという。 空海が唐より帰国後、請来した金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、大日如来を本尊として再興。母(伝承では玉依御前)の菩提寺とし、山号・我拝師山、寺号・延命院曼荼羅寺と改称したと伝える。 鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えた。 しかし、1560年の兵火で焼亡、さらに、1596年に戦火を受けたが復興している。 空海の手植えとされた「不老松」は、平成14年に松くい虫による被害で伐採された。 【2016年 逆打ち 車遍路】 納経所が閉まる17時が近づいてますが、71番札所 弥谷寺から72番札所 曼荼羅寺・73番札所 出釈迦寺は、近くなので、ギリギリ、回れるかも というわけで、まずは、72番札所 曼荼羅寺で納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。 73番札所 出釈迦寺へ急ぎます。

71番札所 弥谷寺[いやだにじ]、奥之院

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剣五山 千手院 弥谷寺 四国八十八霊場 71番 弥谷寺 本尊:千手観音菩薩 本尊真言:おん ばさら たらま きりく ご詠歌:悪人と 行き連れなんも 弥谷寺 只かりそめも 良き友ぞよき ←70番 本山寺 →72番 曼荼羅寺 寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため、大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。また、空海(弘法大師)は7 - 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。 807年(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴を納め、伽藍を再興した。また、求聞持法を修していると五本の剣が落ちてきたことから山号を剣五山、谷が多いことから寺名を弥谷寺と改めたという。 また、縁起によると「此岩窟大師四十二歳ノ契天下泰平五穀豊壌或ハ四十二歳厄除衆生ヲ救為千座之護摩修行シ跡伝ワレリ」とあり、これを聞いた後の住持が大師堂再建の折に弘法大師42歳の姿を刻み、奥之院本尊として厄除大師を祀ったといわれ、その後(焼失・盗難を恐れたなど諸説あり)、岩屋の中に石仏の厄除大師像・佐伯善通卿像・玉寄御前像を建立し、それまで祀っていた木像を秘仏としたことから、2体の厄除大師像が祀られている。(その秘仏の木造弘法大師像が320年ぶりに2014年開帳された。) 澄禅の『四国遍路日記』(承応2年・1653年)には、木像がお祀りされていると記述され、また、寂本の『四国遍禮霊場記』(元禄2年・1689年)には、「いにしヘハ木像にてありけるを石にて改め作り奉る」と記されている。 室町時代には天霧城主・香川氏の庇護を受けたが、天正期に兵火により荒廃。のち丸亀藩主京極氏の帰依により1600年(慶長5年)復興された。 【2016年 逆打ち 車遍路】 別格18番札所 海岸寺に行くため、88ヵ所のルートから、少し外れたので、善通寺IC周辺を後回しにして、71番札所 弥谷寺から76番札所までは順打ちで回るようにします。 前回、8月に来た時は、汗だくになりながら階段を登りましたが、今回も、キツかった。 大師堂のさらに上に、本堂はあります。 大師堂は靴を脱いで、屋内で納経します