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筑前国 一之宮 住吉神社

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住吉神社 筑前国 一之宮 祭神は次の5柱。これら5柱をして「住吉五所大神」とも総称される。 主祭神【住吉三神】:底筒男命・中筒男命・表筒男命 配祀神:天照皇大神・神功皇后 福岡市中心部、かつて比恵川と那珂川の河口、冷泉津に突き出る形で鎮座しており、航海守護神の住吉三神を祀る神社である。 全国には住吉神社が2,000社以上分布し、一般には大阪の住吉大社がその本社とされるが、同社の『住吉大社神代記』には住吉三神は筑紫大神と記されているため、当社が全ての住吉神社の始祖である。 古代には他の住吉神社とともにヤマト王権の国家的航海神として崇敬され、中世からは筑前国の一宮に位置づけられたほか、領主・一般民衆からも海にまつわる神として信仰された古社になる。 古事記に登場する伊弉諾大神(イザナギノオオカミ)の禊祓(みそぎはらえ)によってこの住吉三神が生まれたことで、浄化の神として、私たちの心身の浄化と開運の恵みがご神徳とされています。 住吉橋を渡って進むと天津神社が見えてくる。 伊弉諾大神が禊払いをした池といわれてる「天竜池」。 かつてこの地まで満潮時の海が押し寄せていたという言い伝えからきている。 そしてアーチ型の小さい橋を渡るとその向こうに「天津神社」がひっそりと佇んでいる 。 天津神社  祭神:伊弉諾大神 天竜池を抜けると住吉神社の西門 参道の途中に少彦名神社がある。 少彦名神社 祭神:少彦名命 神門 本殿と拝殿 本殿は、江戸時代前期の元和9年(1623年)の福岡藩主黒田長政による造営。 様式は「住吉造(すみよしづくり)」と称される独特のもので、大阪の住吉大社とも共通する。住吉大社本殿は4棟でこちらは1棟であるが、造営年代は住吉大社本殿(1810年造営)より大きく先行する。 形式は桁行(奥行)4間・梁間(間口)2間の切妻造で、屋根は檜皮葺。屋根やそれに付す破風・千木・堅魚木3本が直線的であるという点は、古制を反映するという。柱は朱色、板壁は白色で彩る。この住吉造は、神明造・大社造などとともに仏教渡来以前に遡りうる古代日本の建築様式とされ、ヤマト大王の住居の様式とする説もある。 この本殿は国の重要文化財に指定されている。 改築・修理する御遷宮が25年ごとに行われている。 本殿前に建てられている拝殿は、入母屋造で、屋根は銅板葺。 古代力士像 古代の力士をかたどった像。博多人

筑前国 一之宮 筥崎宮

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筥崎宮 筑前国 一之宮 主祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命 筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられる。 御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされている。創建の時期については諸説あり断定することは困難だが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっている。 創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たした。 鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名。 後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿った。 江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはなかった。 明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれている。   地下鉄 箱崎宮駅から地上に出たところにある案内看板 博多湾からは本殿まで長大な参道が続く。参道の手前の箱崎浜一体は、以前は白砂青松とうたわれた美しい海岸線を誇っていたが、博多港修築により1936年には護岸整備され、現在では北側に箱崎埠頭、南側に東浜埠頭と博多港の倉庫などの施設が並び姿を一変させている。 二の鳥居 一の鳥居 一之鳥居は慶長14年(1609)、藩主黒田長政が建立したとその銘にある。この鳥居の柱は三段に切れ、下肥りに台石に続いている。笠木島木(かさぎしまぎ)は1つの石材で造られ、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居であり、「筥崎鳥居」と呼ばれてる。 楼門 文禄3年(1594)筑前領主小早川隆景が建立、三間一戸入母屋造(さんけんいっこいりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)、建坪

武蔵国 一之宮 氷川神社

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氷川神社 武蔵国 一之宮 御祭神:須佐之男命・稲田姫命・大己貴命 住所:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407 氷川神社は社記によると今から凡そ2,400年以上、第五代孝昭天皇の御代3年4月未の日の御創立と伝えられている。 御祭神、須佐之男命は天照大御神と月読命とともに伊弉諾命から生まれた三貴子の一神で、八俣大蛇退治など力強く雄々しい神として知られている。 大己貴命は須佐之男命の御子に坐して国土を天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)に御譲りになられた国土経営の神。 稲田姫命は須佐之男命の御妃で大己貴命の御母神。 この御三神をここにお祀りされたのは国土経営、民福安昌祈願のためであって、大和朝廷の威光が東方に及ぶにつれて、当神社の地位も重くなったと考えられている。 神社の鎮座する地は、大宮台地の上にあり、その中でも鼻のように高く突き出た位置にある為、一帯の地名は高鼻町と呼ばれている。かつて神社の東側には見沼と呼ばれる広大な湖沼があり、豊かな土壌を形成する元となっていた。「神沼」、「御沼」とも呼ばれた見沼は正に豊かな恵みを与えて下さる神聖な水をたたえた湖沼で、江戸時代に開発された見沼溜井は周囲約39キロに及ぶ大貯水池だった。現在境内にある神池は見沼の名残であるといわれ、神域の蛇の池からの湧水が豊富に注がれている。 地理的な点から見ても、見沼をひかえ土地は肥沃で東西南北に交通の便もよく、人々は益々繁栄し今日の基をなすに至ったものと思われる。 第十二代景行天皇の御代、日本武尊は当神社に御参拝し東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっている。第十三代成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝廷の命により武蔵国造となって氷川神社を奉崇し、善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を高めたと伝わっている。 今から凡そ1,200年前の聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預かり、又臨時祭にも奉幣に預かる等、歴朝の崇敬を殊の外厚く受けていた。 また武家時代になっては、鎌倉・足利・北条・徳川氏等相次いで当社を尊仰し、治承四年源頼朝公が土肥次郎実平に命じて社殿を再建、文禄5年8月には徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行として社頭残らずを造営せしめ、寛文7年3月には阿部豊後守を奉行として社殿の建立をしている。この社殿は御嶽神社、天

「一の宮巡拝会」の御朱印帳の残念なところ

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一之宮参拝のきっかけ 仕事で全国にある自社ビルに出張する機会が多く、今回、出張予定の埼玉で1日休暇を取得する事になったので、埼玉の観光地を調べていると、支店のすぐ近くに武蔵国一之宮 氷川神社があるのを初めて知って、ビックリ。 氷川神社のある大宮公園や氷川神社の参道は歩いた事はあったが、まさか一之宮とは。 一之宮とは 一之宮とは令制国で最も社格の高いとされた神社の事で、諸国において由緒の深く信仰が篤い神社であり、開拓神として土着の神が祀られている事が大半。 古代から土着の神として最も崇敬された神社が必然的に一之宮となっている。 律令制において国司は任国内の諸社に神拝すると定められていた。 そのため一之宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると云われいて、国司が赴任後に一番最初に神拝していた神社が一之宮であった。 律令制崩壊の後も、その国の第一の神社として一之宮の称号は使われ続けた。 通説では十一世紀から十二世紀にかけて成立したとされる。 一之宮巡拝の歴史は、江戸時代前期の神道家・橘三喜が、延宝三年(1675)から元禄十年(1697)まで、23年かけて全国の一之宮に参拝し、その記録を『諸国一宮巡詣記』全13巻として著した事が知られている。 一之宮を参拝してみようかな 四国八十八ヶ所霊場の流れで、四国の一之宮(大山祇神社・田村神社・大麻比古神社・土佐神社)は、参拝済み。 その他の自社ビルの周りに自社ビルがあるか調べてみると、他にも支店から、少し足を伸ばせば参拝できる一之宮が数ヶ所有る事が分かり、一之宮巡りをしてみようかと思い、専用の御朱印帳を探してみた。 一之宮専用御朱印帳 一之宮専用の御朱印帳を販売しているところは少なく「全国一の宮会」、「全国一の宮巡拝会」、「一の宮巡拝会」で販売していた。 全国一の宮会:11×16cm(A6版)、1,000円 全国一の宮巡拝会 :18×26cm(B5版)、5,170円 御朱印 | 一の宮とは | 一の宮巡拝会 :18×26cm(B5版)、15,000円と7,000円の2種類 自分は、B5版の大きい御朱印帳の方が好みで、B5版の安価な「全国一の宮巡拝会」が販売している御朱印帳にしようかと思ったが、どうも、この御朱印帳、ツルツルの紙質で墨を吸わないとの情報があり、和紙を使用している「一の宮巡拝会」が販売している四