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27番札所 神峯寺[こうのみねじ]

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竹林山 地蔵院 神峯寺 四国八十八霊場 27番 神峯寺   本尊:十一面観音菩薩 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか ご詠歌:み仏の 恵みの心 神峯 山も誓ひも 高き水音 ←26番 金剛頂寺 →28番 大日寺 寺伝によれば神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀った神社が起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受けて行基が十一面観世音菩薩を刻み、本尊として神仏合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し、「観音堂」と名付けたとされている。 幕末、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の母は弥太郎の開運を祈願して現在の安芸市より片道20キロメートルの道のりを素足で三七日(21日間)通い続けた逸話がある。 明治初年の神仏分離令によって神峯神社だけが残り廃寺となり、本尊は金剛頂寺に預けられた。明治20年(1887年)もとの憎坊跡に堂舎を建立し本尊を帰還させ再興した。大正元年には茨城県稲敷郡朝日村の竹林山地蔵院の寺格を移し、そして、昭和に入って、それまでの神峯から神峯寺と称するようになった。 直接、寺へ上がる車道が無く参道が難路であったため、宮地達観の呼びかけにより神峯道整備事業団が結成され、昭和50年10月より工事が着手された[1]。2年後の12月一応の完成を見たが、その後数年間改良が重ねられた。平成20年代には麓から中腹まで片側1車線の広域農道が開通し神峯道とつながった。 【2016年 逆打ち 車遍路】 駐車場まで、車で、かなりの急勾配の坂道を登ります。 車で、けっこう登ったのに、駐車場から山門まで急勾配の坂を歩いて登りました。 岩清水。高知県の名水に指定されている 山門と納経所を過ぎると、本堂に続く階段。 まだ、登るんですね。 本堂 大師堂 ちょうど日没時刻だったので、夕日がとても綺麗でした。 御朱印 今日は、ここで打ち止め

28番札所 大日寺[だいにちじ]

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法界山 高照院 大日寺 四国八十八霊場 28番 大日寺   本尊:金剛界大日如来 本尊真言:おん ばざらだどばん(金剛界) ご詠歌:露霜と 罪を照らせる 大日寺 などか歩みを 運ばざらまし ←27番 神峯寺 →29番 国分寺 寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基が大日如来像を刻んで堂宇を建立して開創したという。 弘仁6年(815年)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って荒廃していた本寺を復興したとされる。 慶長年間(1592年 - 1615年)から土佐藩の祈願所となり栄えたが、明治に入って神仏分離令によって廃寺となったが、大日堂と改称した本堂に本尊を安置していたので助かった。 その後、明治17年(1884年)再興された。 奥の院の爪彫薬師は首から上の病に霊験ありとされ、平癒を祈る参拝者が跡を絶たない。 願いが叶うと穴の開いた石に氏名、年齢、快癒した身体の部位を書き奉納する習わしとなっている。 【2016年 逆打ち 車遍路】 朝一番に国分寺と善楽寺は行ったので、大日寺 山門 本堂 大師堂 御朱印 【2018年3月11日 歩き遍路にて】 石段の途中に立つ山門 さらに上って行くと左に鐘楼が、右に手水場がある 奥に進むと右手に地蔵堂(六角堂)、左に大師堂があり、正面奥に本堂が建つ 本堂 平成9年再建、釘を使わず木組みで造られている。土日のみ本堂の外陣に入って参拝ができ、前立本尊を拝顔できる。 大師堂 昭和59年改修。大師像は土佐2代藩主山内忠義が寄贈したといわれる。大師像を拝顔できる 地蔵堂(六角堂) 28番 奥之院

31番札所 竹林寺[ちくりんじ]

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五台山 金色院 竹林寺 四国八十八霊場 31番 竹林寺   本尊:文殊菩薩 本尊真言:おん あらはしゃのう ご詠歌:南無文殊 三世の仏の 母と聞く 吾も子心 乳こそほしけれ ←30番 善楽寺 →32番 禅師峰寺 寺伝によれば、神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇は行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であると感得し栴檀の木に文殊菩薩像を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年間(806 - 810年)に空海(弘法大師)が滞在、瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復したと伝えられる。 実際の創建年代等について不詳である。中世以降は武家の信仰も厚く寺運も隆盛し、1318年(文保2年)には臨済宗の僧夢窓疎石もこの寺に滞在している。その後、寛永年間(1624年 - 1644年)空鏡によって再興された。江戸時代には土佐国における真言宗の触頭を勤める寺院のひとつであった。また、本尊の文殊菩薩の出開帳を江戸や大坂で行っている。 【2016年 逆打ち 車遍路】 ここのお寺は、雰囲気が、とても好きです。 紅葉を楽しみにしてたのですが、まだまだでした。 ここは、お遍路さん以外の参拝者が多いです。 山門 五重塔 本堂 大師堂 御朱印 竹林寺羊羹は、午前中で売り切れたようで、買うことが出来ませんでした。残念。 31番 奥之院

32番札所 禅師峰寺[ぜんじぶじ]

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八葉山 求聞持院 禅師峰寺 四国八十八霊場 32番 禅師峰寺   本尊:十一面観音菩薩 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか ご詠歌:静かなる 我がみなもとの 禅師峰寺 浮かぶ心は 法の早船 ←31番 竹林寺 →33番 雪蹊寺 寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、空海(弘法大師)はここを霊地と感得し虚空蔵求聞持法の護摩を修法、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として祀り、現在の寺名を定めたという。 土佐藩主山内一豊以来、歴代藩主の信仰を受けており、参勤交代で浦戸湾を出航する際には航海の無事を祈願したという。 【2016年 逆打ち 車遍路】 前回は、寺の下のトンネルの中で、ナビが案内を終了しましたが、今回は、ちゃんと目的地を設定したので大丈夫でした。 登りになる前の細道は、直線ですが、離合出来る場所が決まっているので、注意が必要です。 駐車場には観音菩薩像がありました。 山門 海の近くの山の上なので眺めが綺麗でした 本堂と大師堂 御朱印 32番 奥之院

33番札所 雪蹊寺[せっけいじ]

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高福山 高福院 雪蹊寺 四国八十八霊場 33番 雪蹊寺   本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:旅の道 うえしも今は 高福寺 後のたのしみ 有明の月 ←32番 禅師峰寺 →34番 種間寺 寺伝によれば空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。 『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。 寺に伝わる毘沙門天および両脇侍像は、毘沙門天像の足枘銘から湛慶の真作と判明し、高福寺創建の嘉禄元年(1225年)頃の作と推定されている。ただし、湛慶作の仏像が都から遠く離れた土佐に伝わった経緯は定かでない。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという伝承もある。 その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 - 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。 江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した。 明治時代になると廃仏毀釈により明治3年(1870年)廃寺となり、翌年、後方に隣接して当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社が建立され、その後、大玄和尚により復興した。 【2016年 逆打ち 車遍路】 本堂 御朱印

35番札 清瀧寺[きよたきじ]

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醫王山 鏡池院 清瀧寺 四国八十八霊場 35番 清瀧寺   本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:澄む水を 汲むは心の清滝寺 波の花散る 岩の羽衣 ←34番 種間寺 →36番 青龍寺 寺伝によれば養老7年(723年)行基が本尊薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院繹木寺(けいさんみついんたくもくじ)と称したという。その後空海(弘法大師)が巡錫、五穀豊穣を祈願して山中で一七日(7日間)の修法を行い、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたという。 平城天皇の第3皇子である高岳親王は薬子の変に連座したことから仏門に入り空海の弟子となり真如と名乗った。貞観3年(861年)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。 【2016年 逆打ち 車遍路】 前回、オデッセイだったため、パスした清瀧寺。 距離は短いけど、急勾配で、かなり細道。 軽四同時でも、離合するには場所を選びます。 本堂 大師堂 大きな車両が登れないので、消防車が常設されてます 火事になった時に道が細くて消防車が来れないからとか 止まったままの時計 しかも表裏で、指している時刻が違います 境内からの眺め。天気が良いのでキレイでした。 御朱印

30番札所 善楽寺[ぜんらくじ]

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百々山 東明院 善楽寺 四国八十八霊場 30番 善楽寺   本尊:阿弥陀如来 本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん ご詠歌:人多く 立ち集まれる 一の宮 昔も今も 栄えぬるかな ←29番 国分寺 →31番 竹林寺 寺伝によれば、大同5年(810年)空海(弘法大師)が高賀茂大明神(土佐国一宮で現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺とともに創建したといわれている。 応仁年間(1467 - 1469)に兵火で焼失したが、土佐藩2代藩主山内忠義の庇護を受けて栄えた。明治初期の神仏分離まで、納経は神宮寺(別当寺)で行っていたが塔頭寺院の善楽寺とともに廃寺となり、本尊の阿弥陀如来と弘法大師像が南国市にある29番札所国分寺に移された。両寺の廃寺により明治8年(1875年)に再興された安楽寺が30番札所となった。神宮寺は再興されず、善楽寺は昭和5年(1930年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院をこの地に移転し、また国分寺に預けられていた弘法大師像を移して再興したが、30番札所の正統性について善楽寺と安楽寺の間で論争が起こり、しばらく30番札所が2箇所並立することになった。その後、善楽寺を「開創霊場」、安楽寺を「本尊奉安霊場」と称することになり、平成6年(1994年)1月1日、安楽寺を30番札所奥の院とすることで決着した。 【2016年 逆打ち 車遍路】 元々、土佐の一宮「土佐神社」の別当寺なので、土佐神社のすぐ隣にあります。 平成6年までは、30番札所は、善楽寺と安楽寺の2ヶ寺だったのか、1ヶ寺にまとまったとの事です。 駐車場には、大きな観音菩薩像がありました 本堂 大師堂 御朱印 【2018年3月11日 歩き遍路にて】 歩き遍路の場合も裏のほうから入る 梅見地蔵 元札所の土佐一宮 土佐神社 土佐神社の参道を通り門の方へ

29番札所 国分寺[こくぶんじ]

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摩尼山 宝蔵院 国分寺 四国八十八霊場 29番 国分寺   本尊:千手観音菩薩 本尊真言:おん ばさら たらま きりく ご詠歌:国を分け 宝を積みて 建つ寺の 末の世までの 利益のこせり ←28番 大日寺 →30番 善楽寺 聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により全国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。当寺は寺伝によれば天平13年(741年)に行基が千手観世音菩薩を刻み本尊として安置し開創したとされる。その後弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が毘沙門天を刻んで奥の院に安置、また、星供の秘法を修めたことから、当寺は星供の根本道場となり、大師像は「星供大師」と呼ばれている。そして、その頃真言宗の寺院となったという。史実としては、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、土佐を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したことがみえるため、この年以前には創建されていたとみられる。 国分寺周辺は古代から中世まで土佐国の国府の所在地であり、「土佐日記」の作者紀貫之も国司として4年間当地に滞在した。国府の中心である国庁は国分寺から徒歩15分の位置にあり、かつてその近くにあった土佐国総社は現在当寺境内に移されている。 寺はたびたび兵火に遭ったが、永禄元年(1558年)には長宗我部国親、元親によって金堂が再建。明暦元年(1655年)に土佐藩2代藩主山内忠義が山門を寄進した。大正11年(1922年)に境内全域が国の史跡に指定されている。 【2016年 逆打ち 車遍路】 今日は、ここから 松山は曇り空だったのに、高知は快晴です。 高知道から高知入りしたので、南国IC近くの国分寺から進めます。 駐車場は、第2駐車場の看板が、初めに目に入りますが、山門横にも駐車場があります。 当然、こちらの方が境内に近いです。 山門 本堂と大師堂 御朱印 【2018年3月11日 歩き遍路にて】 山門をくぐって進んでいくと右側に手水場、鐘楼が、左手に開山堂がある。 正面奥に本堂が建ち、その左に大師堂がある。 この前に酒断地蔵がある。 酒断って、なんか高知らしい 鐘楼の先を右に入ると中門があり、突き当りに光明殿、左に庫裏・納経所がある。