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番外札所 金刀比羅宮

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金刀比羅宮 祭神:大物主命・崇徳天皇 神仏習合により真言宗の象頭山 松尾寺 金光院となり、象頭山 金毘羅大権現と呼ばれた。明治維新の際に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国にある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。 海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。 「一の坂」を登った先にあるのは「大門」 大門 門の中の両側に弓を持つ武者が控える。これより内が境内で、有栖川宮熾仁親王筆の「琴平山」の額が掲げられる。門をくぐると鎌倉時代から特別に境内での営業を許された五軒の五人百姓が加美代飴を売っている ここまで365段。 大門からしばらくは、さっきまでの急な石段がウソのように、なだらかな石畳の道が続きます。 旭社(重要文化財) 天保8年(1837年)に建立された銅瓦葺の二層入母屋造で、金毘羅大権現時代に金堂だった建物で、全体に多くの美しい彫刻がなされている。 高さ約18m。祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神。神仏分離以前の松尾寺の金堂であり、そのあまりの豪華さに江戸時代に参拝した森の石松は本堂と誤り、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられる。本宮を参拝した後に参拝する習わしである。 松尾寺 ここまでの段数は628段。 旭社の右手を進むと、ついに最後の難関です。全行程でも最も急角度の石段が133段も続くという苦行のような坂 785段を登り切ると本殿 本殿 1878年再建。桧皮葺・大社関棟造り。 祭神は 大物主神と崇徳天皇を合祀。 写真を取り忘れ 金比羅神社 御朱印 御本宮と展望台の間には、奥社へ続く道が。奥社まではさらに583段 常磐神社 常磐神社(祠) - 祭神は武雷尊、誉田和気尊 白峰神社 本殿 大正2年建造、流造。祭神は崇徳天皇、待賢門院、大山祇神。 随身門 - 白峯寺頓証寺殿の勅額門から明治31年に移さ

新四国曼荼羅 16番 松尾寺

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象頭山 松尾寺 新四国曼荼羅霊場 16番 宗派:高野山真言宗 本尊:釈迦如来、金毘羅大権現 住所:香川県仲多度郡琴平町九七三 ←15番 顕正寺 →17番 仏母院 金毘羅とは、蛟竜などに訳される梵語「クンピーラ」の音訳で、実際にはワニであり、水神として尊崇された。 開山は大宝年間、神変大菩薩といわれ、その霊験あらたなることが天下に広まり、天平宝宇6年(762年)孝謙帝が勅使藤原実朝を遣わし、殿堂を建立された。 室町時代に至り、「讃岐のこんぴらさん」と全国的に有名になり、中興の開山金光坊宥盛法印に至って,天下の大伽藍となり、大衆進行はますます深くなった。 ところが明治維新の神仏分離の際に、排仏の悲運に遭遇し、一山六ヵ院中五院が排され、善門院一坊が山麓の現在の地に移り、法灯を継承している。 室町期の金毘羅大将、鎌倉期の釈迦如来,愛染明王,南北朝の弘法大師等々の諸仏が奉安されている。 絵画では、江戸後期の釈迦涅槃図は縦320×横756cmで横長の涅槃図では類を見ない。李朝の宮廷画家金弘道(ギムホンド)の作とも言われる大作である。 ちなみに、神仏分離の影響で、金刀比羅宮には、金毘羅大権現は祀られません 山門 本堂 御朱印

73番 奥の院 捨身ヶ嶽

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捨身ヶ嶽 四国八十八霊場 73番 奥の院 標高481mの我拝師山は、もともと倭斯濃山といった。弘法大師が真魚と呼ばれていた7歳のとき、この山に登り、仏門に入って衆生を救済したいという願いがかなうならば霊験を現すよう、もしかなわないのであれば我が身を以て諸仏を供養すると念じて、断崖より飛び降りた。すると紫雲が湧き起こって釈迦如来が出現し、天女が真魚を受けとめた。そして釈迦如来は「一生成仏」と告げた。 願いが成就することを告げられた大師は感激し、釈迦如来の姿を刻んで一宇を建立した。この時、倭斯濃山も我拝師山と改められたと伝えられる。これが73番札所出釈迦寺の縁起である。  出釈迦寺の境内から西の山の上に、奥の院の建物が見える 出釈迦寺の脇の道を進んでいくと我拝師山に登る参道がある。 急勾配の登り坂 弘法大師御加持水「柳の水」 ここにも駐車場(この上は鎖が張っているので車では登れないと注意書き) まだまだ登り坂は続く へんろ道は右 少しの間、山道 石灯籠の並び、雰囲気が変わってきた あと少し 山門の手前にも駐車場 山門が見えてきた 山門の手前に大師像 山門 階段の上に鐘楼 根本御堂は、改修中 お釈迦様が現れたと伝えられる場所。 元はここが出釈迦寺であったが、江戸時代に山麓の現在地に移転した。 弘法大師が飛び降りたという捨身ヶ嶽禅定は、根本御堂の脇の登山道をさらに登ったところにある。 かなり急な山道で、鎖をつたって岩を登るようなところもある。 捨身尊像 下を覗くと、ちょうど根本御堂の屋根が見える。 奥の院 御朱印

新四国曼荼羅17番 仏母院

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八幡山 仏母院 新四国曼荼羅霊場17番 宗派:真言宗 醍醐派 本尊:大日如来 所在:香川県仲多度郡多度津町西白方535 ←16番 松尾寺 →18番 善性院 仏母院は、空海(弘法大師)の母、玉依御前(たまよりごぜん)の屋敷跡と言われる。 玉依御前がこの地の産土神熊手八幡宮の八幡神に祈りここで空海を出産したと言われている。屋敷跡と言われる場所は御住(みすみ)屋敷と呼ばれ現在は仏堂が建立されている。境内には、空海の臍の緒を納めたと言われる「胞衣(えな)塚」がある。また、空海の産湯井戸も残されている。本堂には空海が幼少時に泥土で造ったと伝えられる仏像「童仏」が安置されている。 この地に唐から帰国した空海が寺院を整備し三角寺と名付けたと言われる。熊手八幡宮の別当寺院となり山号を八幡山とした。 戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)に戦乱により荒廃した。その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も大善坊と称した。 江戸時代前期の寛永15年(1638年)嵯峨御所より「仏母院」の院号を下賜され、寺院名が大善坊から仏母院に改められた。 御朱印

海岸寺 奥の院

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四国別格二十霊場 18番 海岸寺 奥之院 奥之院には山門、大師堂、弘法大師産湯の井戸、大塔、文殊堂、御盥山不動坊、そしてミニ八十八カ所等がある。 山門 大師堂 ミニ八十八カ所の入口 八十八ヵ所だけでなく別格二十ヵ所も一緒になっている 奥之院の御朱印