投稿

34番札所 種間寺[たねまじ]

イメージ
本尾山 朱雀院 種間寺 四国八十八霊場 34番 種間寺   本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:世の中に 蒔ける五穀の 種間寺 深き如来の 大悲なりけり ←33番 雪蹊寺 →35番 清瀧寺 寺伝によれば用明天皇在位(585年 - 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。その後、弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したといい、その際に唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。 天暦年間(947年 - 957年)には村上天皇が藤原信家を勅使にして「種間」の勅額を下賜。土佐藩主からの信仰も得ていた。神仏分離令で廃寺となるが、明治13年(1880年)に再興される。 【2016年 逆打ち 車遍路】 清滝寺にはオデッセイで行く勇気が無く、また、時間がなかったので、種間寺へ。 16時45分に滑り込み。 先に納経所に寄ってから、本堂・大師堂へ 弘法大師が唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたので寺の名がついたとの事です。 昭和45年の台風後、再建された本堂 大師堂 御朱印 本日の移動距離、600km弱 その割には、7ヶ寺と、少なめ 結構、疲れました 34番 奥之院

36番札所 青龍寺[しょうりゅうじ]

イメージ
独鈷山 伊舎那院 青龍寺 四国八十八霊場 36番 青龍寺   本尊:波切不動明王 本尊真言:のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん ご詠歌:わずかなる 泉に棲める 青龍は 仏法守護の 誓ひとぞきく ←35番 清瀧寺 →37番 岩本寺 寺伝によれば弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)によって開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として、恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海はその独鈷杵がこの山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという。本尊の波切不動は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海がその姿を刻んだものであると伝える。 江戸時代初期には荒廃していたが、土佐藩2代藩主山内忠義によって正保年間(1644年 - 1648年)に再興された。しかし、宝永4年(1707年)には地震と津波で大きな被害を受け、江戸末期に再建された。 なお、本堂のある上段が如意山で、客殿のあるところが摩尼山の麓で、奥の院のある所が独鈷山であり、薬師如来が本尊の寺があった如意山に、奥の院の本尊不動明王を移し、その薬師如来は横に置かれ、そのあと大師堂を造ってずらっと並んだ伽藍の一つの寺になったとみられる。 【2016年 逆打ち 車遍路】 駐車場に入ると、例のバスツアーのバスが既に駐まってました 私達は、別格に寄ってたので、当然と言えば当然ですが 山門 本堂まで170段の石段。元横綱の朝青龍が明徳義塾高校在学中に鍛錬したとか。しこ名もこのお寺に由来するそうです。 本堂 大師堂 本堂と大師堂で納経を済ませ、覚悟して、納経所に行くと、納経帳や掛軸が山積み ただ、異様に多い バスツアーの添乗員の方が納経所の人に、「先に済ませてあげてください」と声を掛けてくれたので、山積みの納経帳が終わる前に、ご朱印を頂きました。 実は、このバスツアーの添乗員の方、3ヶ寺の納経所で一緒になっているのですが、3ヶ寺とも、同様の対応をして下さってました。 なんて優しい人なんだ 今まで、同じ場面で、どんなに後ろに行列ができようが、視線を感じようが、明後日

四国別格二十霊場 5番札所 大善寺[だいぜんじ]

イメージ
高野山 大善寺 四国別格二十霊場 5番 四国三十三観音霊場 14番 土佐七福神霊場 福禄寿札所 本尊:弘法大師 御詠歌:みな人の 善を須崎の 高野寺 波の音さえ 法の声かな ←4番 鯖大師本坊 →6番 龍光院 須崎市街地の南西端にある丘陵に位置する。丘陵の下の街中の道路脇に大師堂があり、階段を登った丘陵上に鐘楼、本堂がある。納経所は大師堂から東に回り込んだ本坊の中にある。さらに、本堂の右側から背後へ登って行くと金刀比羅宮が祀られている。 二つ石大師 伝承によれば、現在寺院がある丘陵は須崎湾に突き出た岬であった。ここには「波の二つ石」と呼ばれる二つの巨石があった。ここを通る際には、通常は丘陵を越えて通行していたが、干潮時は二つ石の端を通行していた。しかし、ここは「土佐の親不知」とも呼ばれる難所で突然の大波にさらわれる海難事故が絶えなかった。この岬は霊峰・石鎚山の南端に当たるとされ、不浄の者がここを通ると怪異に出会い難に遭うのだと言われた。 平安時代前期の弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が42歳の時、四国霊場開創のため巡錫中に須崎を訪れた際この話を聞いた。空海はここで海難死亡者の菩提を弔い交通安全を祈願した。その後、ここに大師堂が結ばれたとされている。やがてこの大師堂は「二つ石大師」と呼ばれるようになった。 二つ石は長年の波涛で周囲に土砂が堆積し陸地となった。昭和初期には防波堤が造られ、現在、二つ石は土中に埋まっている。 大善寺 この寺院の名は、土佐藩の豪商・美濃屋が江戸時代後期の文化12年(1815年)に編纂した『南路志』に記録されている。元々、八幡山明星院大善寺と言い、大和国(現在の奈良県)長谷寺の僧坊・小池坊の末寺であったと伝えられ、現在地より東寄りの古市町にあり、本尊は阿弥陀如来(伝・恵信の作、現在不明)で、八幡神社の別当として末寺17ヶ寺を従える大寺であったと伝えられている。しかし、宝永4年(1707年)の宝永地震による津波で流され、古城山の麓に移ったとされている。 明治時代初期の廃仏毀釈により廃寺となったが、明治29年(1896年)廃寺となったことを惜しむ信徒により二ツ石大師の上部に寺院が復興された。 【2016年 逆打ち 車遍路】 駐車場の横に、道に面してすぐに大師堂がありました。 大師堂 本堂は?っと思って、見回すと、大師堂横の石段を登った所に本堂が

38番札所 金剛福寺[こんごうふくじ]

イメージ
蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺 四国八十八霊場 38番 金剛福寺   本尊:三面千手観音 本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか ご詠歌:ふだらくや ここは岬の 船の棹 取るも捨つるも 法のさだやま ←37番 岩本寺 →39番 延光寺 寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。寺名は、五鈷杵は金剛杵ともいわれそれから金剛を、観音経の「福聚海無量」から福を由来したとされている。 歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。 鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる。 室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。 【2016年 逆打ち 車遍路】 延光寺から1時間かけて金剛福寺へ 今日の札所は、それぞれが離れてて、なかなか手強いです 高知は、さすが修行の場です ただ、途中の道は、新しくトンネルが出来た道を通れて、今までの道と比べると、カーブが緩やかで、随分、楽に来ることができました 山門 境内には大きな池が広がってます 本堂 大師堂 本堂と大師堂で納経して、納経所で御朱印を頂きました。 例のバスツアーとは、次の岩本寺に向けて出発して、すぐにバスとすれ違いました いい感じ(^-^ 38番 奥之院

37番札 岩本寺[いわもとじ]

イメージ
藤井山 五智院 岩本寺 四国八十八霊場 37番 岩本寺   本尊:不動明王、聖観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の五仏 本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん/ おん ころころ せんだりまとうぎ そわか/おん あろりきゃ そわか/ おん かかかびさんまえい そわか/ のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたら たかんまん ご詠歌:六つのちり 五つの柱 あらわして 深き仁井田の 神のたのしみ ←36番 青龍寺 →38番 金剛福寺 寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅命を受け行基が七難即滅・七福即生を祈念して開創したのが起源であるという。それは現在地より北西約2kmの仁井田川のほとりで、仁井田明神のあったことから当時は「仁井田七福」、別名「七福寺」とよばれた。その後、弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が五社・五寺からなる福円満寺を増築し、東から、東大宮が不動明王、今大神には清浄観音菩薩、中宮が阿弥陀如来、西大宮が薬師如来、聖宮が将軍地蔵菩薩とそれぞれ本尊を安置し、星供の秘法を修したという。こうして「仁井田五社十二福寺」と称し嵯峨天皇の勅願所となり栄え、別当寺の福円満寺が札所であった。 天正年間(1573年 - 1592年)に兵火によって焼失するが、時の足摺山主・尊快親王が弟子の尊信に命じて再興した。 一方、岩本寺は、町中にあり福円満寺から足摺へ向かう途中の宿坊であった。中世末に一宿した尊海親王がこの宿坊に岩本坊の名を与え繁盛した。1652年から1688年の間[3]に衰退した福円満寺から札所権が移り、岩本寺と改称した。 明治初期には神仏分離により仁井田五社の5つの仏像は岩本寺に移されたが、しばらくして、仏像と札所権は八幡浜の吉蔵寺に移る。しかし、明治22年(1889年)岩本寺は復興して仏像と札所権を取り戻し、現在に至る。 【2016年 逆打ち 車遍路】 37番札所 岩本寺 前の金剛福寺から約90km 一番、札所間が離れているそうです 途中、昼食を採ったりしましたが、2時間以上かかりました 岩本寺に着いた時、既に例のバスツアーの一行が、バスから降りて境内に向かってました ショック 山門 大師堂 本堂。本尊は、5尊 前身の仁井田明神の5つの社を統一したからとか 本堂と大師堂で納経して

39番札所 延光寺[えんこうじ]

イメージ
赤亀山 寺山院 延光寺 四国八十八霊場 39番 延光寺   本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:南無薬師 諸病悉除の 願こめて 詣る我身を 助けましめせ ←38番 金剛福寺 →40番 観自在寺 寺伝によれば聖武天皇の勅命によって神亀元年(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したという。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれる。 伝説によれば延喜11年(911年)赤い亀が境内にある池からいなくなったが、やがて銅の梵鐘を背負って竜宮城から戻ってきた。そこで現在の山号、寺号に改めたという。 【2016年 逆打ち 車遍路】 境内横の駐車場が満車だったので、少し離れた駐車場に駐めた後、境内の方へ延びる坂道を登ると、裏山の墓地へ 境内を見下ろす羽目に・・・ 急がば回れですね💦 山門 本堂 大師堂 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。 延光寺を後にする頃、前から例のバスツアーの一行が歩いて境内に向かってました 40番札所を先に出発出来たので、いい感じのペースで先行出来そうです

40番札所 観自在寺[かんじざいじ]

イメージ
平城山 薬師院 観自在寺 四国八十八霊場 40番 観自在寺   本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:心願や 自在の春に 花咲きて 浮世のがれて 住むやけだもの ←39番 延光寺 →41番 龍光寺 弘法大師が大同2年に平城天皇(在位806〜09)の勅命を受けてこの地を訪れ、1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。 平城天皇はまた、勅額「平城山」を下賜し、次の嵯峨天皇(在位809〜23)とともに親しく行幸され、御朱印を下されて『一切経』と『大般若経』を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修された。こうしたことから、この地方を「御荘」と称し、また勅額の山号に因んで「平城」とも呼ぶようになっている。 寛永15年(1638)、京都・大覚寺の空性法親王が四国巡拝の折に宿泊され、「薬師院」の院号を授かっている。このころは七堂伽藍がそびえ、末寺48坊、寺領二千数百石という隆盛を誇っていたという。だが、火災によりすべての堂塔を焼失、その後は宇和島藩主・伊達家の祈願所として旧観の回復につとめ、法灯を守っている。 【2016年 逆打ち 車遍路】 今日は、ここから 松山ICから高速道路に乗り、終点の津島岩松ICで降りた後も、かなり走った。 遠かった。 早速、バスツアーとバッティング 休日は、かなりの確率で会う。 しかも、先達さんが「皆さん、愛媛はココで最後ですよ」って まさか、逆打ちツアーですか? 山門 本堂 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂いた。 40番 奥之院