投稿

5番札所 地蔵寺[じぞうじ]

イメージ
無尽山 荘厳院 地蔵寺 四国八十八霊場 5番 地蔵寺   本尊:地蔵菩薩 本尊真言:おん かかかびさんまえい そわか ご詠歌:六道の 能化の地蔵 大菩薩 導き給え この世のちの世 ←4番 大日寺 →6番 安楽寺 寺伝によれば弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅願により空海(弘法大師)が自ら1寸8分(約5.5cm)の勝軍地蔵菩薩を刻み、本尊として開創したと伝えられる。 嵯峨・淳和・仁明の3代の天皇の帰依が篤かった。熊野権現の導師であった函上人が、権現の霊木に2尺7寸(約80cm)の延命地蔵尊を刻み、大師が刻んだ地蔵菩薩を胎内に納めたという。 本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏により再建された。 【2016年 逆打ち 車遍路】  山門 本堂 大師堂 樹齢 800年を超えるといわれる「たらちね大銀杏」 御朱印 納経所を出た時点で、残り30分を切ってる。 あと1ヶ寺行けるか? 【2017年10月8日 歩き遍路にて】 仁王門を参道から 今回は、紅葉の時期ではなかったので、銀杏の木は青々としていた。 仁王門 本堂 大師堂 五百羅漢への道 5番 奥之院

6番札所 安楽寺[あんらくじ]

イメージ
温泉山 瑠璃光院 安楽寺 四国八十八霊場 6番 安楽寺   本尊:薬師如来 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか ご詠歌:かりの世に 知行争う むやくなり 安楽国の 守護をのぞめよ ←5番 地蔵寺 →7番 十楽寺 寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたという。 天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治年間(1658年 - 1661年)に駅路寺であった瑞運寺を併合して現在地に再建される。 本尊薬師如来坐像は、昭和37年(1962年)当寺の住職にすすめられて、妻の難病平癒祈願のため四国遍路を続けていた夫婦が、遍路途中に病気平癒をした報恩のために奉納したもので、43cm程の古来の本尊を胎内仏として納められている。 【2016年 逆打ち 車遍路】    山門 多宝塔 本堂 大師堂 御朱印 大師堂前から湧き出る宿坊の温泉とラジウム鉱泉入りの薬湯も有名。 【2017年10月8日 歩き遍路にて】 歩き遍路の場合、山門の正面からアプローチ 本堂 大師堂 多宝塔 宿坊 入口

7番札所 十楽寺[じゅうらくじ]

イメージ
光明山 蓮華院 十楽寺 四国八十八霊場 7番 十楽寺   本尊:阿弥陀如来 本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん ご詠歌:人間の 八苦を早く 離れなば 到らんかたは 九品十楽 ←6番 安楽寺 →8番 熊谷寺 寺は現在地から北へ3kmほど奥にある、十楽寺谷の堂ヶ原にあったとされています。 弘法大師がこの地を巡教された時に阿弥陀如来を感得され、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられています。 その際に弘法大師は「生・老・病・死」など人間に避けることの出来ない苦難を乗り越え、10の光明と、輝く楽しみが得られるように「光明山十楽寺」と寺の名を授けたそうです。 広大な七堂伽藍を誇っていましたが、天正10年(1528年)長宗我部元親による兵火で、全ての堂塔が焼失します。幸い、本尊は当時の住職が背負い難を免れたといわれています。 寛永12年(1635年)に現在地に移り再建されました。 明治時代になり本堂が再建され、大師堂、書院などを整え、平成6年には立派な木造の本堂を建立しています。 【2016年 逆打ち 車遍路】 山門 本堂 大師堂 御朱印 【2017年10月 歩き遍路】 龍宮城を彷彿させる朱塗りの鐘楼門が見えてきた 中門遍照殿・愛染堂 中門の中に入れるようになっています。階段を上がると愛染明王様がいらっしゃいます。「夫婦愛和・縁結び」の御本尊様です。 中門を潜って境内に 本堂の手前に手水場 変わった形の手水場  本堂の左に観音像、地蔵堂 本堂の反対側には、お大師様  本堂の左奥には大師堂への階段  大師堂 

8番札所 熊谷寺[くまだにじ]

イメージ
普明山 真光院 熊谷寺 四国八十八霊場 8番 熊谷寺   本尊:千手観音菩薩 本尊真言:おん ばさら たらま きりく ご詠歌:薪とり 水くま谷の 寺に来て 難行するも 後の世のため ←7番 十楽寺 →9番 法輪寺 四国霊場のなかで最大級の仁王門を構える。 縁起によると 弘仁 6年、 弘法大師 がこの地の閼於ヶ谷で修行をされていた。その折、 紀州 の 熊野権現 があらわれ「末世の 衆生 を永く済度せよ」と告げられ、5.5センチほどの金の観世音菩薩像を授け、虚空はるかに去っていったという。大師はその場にお堂を建てて、霊木に自ら一刀 三礼 して等身大の千手観音像を彫造し、その胎内に金の尊像を納めて本尊にされた、と伝えられている。 元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記』には、「境内は清幽で、谷が深く、水は涼しく、南海が一望できる。千手観音像の髪の中には126粒の仏舎利が納められてある」という意の記述がある。境内にその鎮守堂があり、熊野権現が祀られている。 元禄のころ(1688〜1704)までに幾度か火災にあった説もある。ただ、昭和2年(1927)の火災では本堂とともに弘法大師作のご本尊も焼失している。その後、歴代住職の尽力により本堂は昭和15年に再建されたが、第2大戦で工事が中断、ようやく同46年に堂宇の全容が完成、新造された本尊の開眼法要が営まれた。 前述の仁王門は、貞享4年(1687)の建立で、徳島県の指定文化財である。和様と唐様の折衷様式で、間口は9メートル、高さは12.3メートル。2層目の天井や柱には極ごくさいしき彩色の天女の姿などが描かれている。大師堂に安置されている弘法大師坐像は室町時代の作で、県指定の文化財である。 【2016年 逆打ち 車遍路】 元々の予定は、ココまででしたが、早く回れているので、次を目指します 徳島の1〜17番札所は、比較的近くに隣接しているので、どんどん回れます 中門 鐘楼 本堂 御朱印 【2017年10月 歩き遍路】 歩き遍路の場合、仁王門の正面から境内へ 去年、車遍路の時に仁王門と思っていた門は、中門だった 近づくと、かなり大きい 四国霊場最大の山門 駐車場に着くと、正面に多宝塔、左に納経所が見える 多宝塔 中門(二天門) 持国天と多聞天が両脇に立つ 本堂 本堂左の四十二段の男厄除け石段を上っていくと大師堂がある 本堂手前の左手