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19番札所 立江寺[たつえじ]

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橋池山 摩尼院 立江寺 四国八十八霊場 19番 立江寺   本尊:延命地蔵菩薩 本尊真言:おん かかかびさんまえい そわか ご詠歌:いつかさて 西の住居の わが立江 弘誓の船に 乗りていたらん ←18番 恩山寺 →20番 鶴林寺 寺伝によれば、聖武天皇の勅願寺として、行基が光明皇后の安産を祈願し一寸八分 (5.5cm) の金の子安の地蔵菩薩を刻み「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊として開基したとされる。空海(弘法大師)が訪れた際、小さい本尊は失われる恐れがあるとして、一刀三礼して等身大の地蔵菩薩を刻み、本尊を胎内に収めたといい、このときに寺名が立江寺と改められたと伝えられている。当時の所在地は現在地から400mほど西であったという。 【2016年 逆打ち 車遍路】 駐車場が分かりにくかったです 大師堂は、法事を行っていたので、お経をあげるのは遠慮させて頂きました 仁王門 本堂 御朱印 【2017年12月8日 歩き遍路にて】 仁王門 本堂  大師堂 19番 奥之院 星の岩屋 19番 奥之院 清水寺

21番札所 太龍寺[たいりゅうじ]

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舎心山 常住院 太龍寺 四国八十八霊場 21番 太龍寺   本尊:虚空蔵菩薩 本尊真言:のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん あり きゃまり ぼり そわか ご詠歌:太龍の 常にすむぞや げに岩屋 舎心聞持は 守護のためなり ←20番 鶴林寺 →22番 平等寺 弘法大師の24歳での著作である 三教指帰 の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。 19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った弘法大師が、現在の境内の600m ほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍にちなんでいる。 延暦 12年( 793年 )に 桓武天皇 の 勅願 によって堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。 皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、 天正 年間(1573年 - 1592年)に 長宗我部元親 の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが 徳島藩 主 蜂須賀家 の保護によって再建される。 【2016年 逆打ち 車遍路】 ロープウェイ 1人2470円もしますが、2山越えるので、十分価値は有ります ロープウェイを降りるとこんな感じ 本堂 多宝塔 大師堂 高野山 奥の院を模して拝殿と奥殿の構成。 納経所の方にある鐘楼門 御朱印 舎心ヶ嶽の御朱印も頂けるようですが、行ってないので、遠慮しました。 【2017年12月9日 歩き遍路にて】 鶴林寺からの歩きの場合は、ロープウェイ乗り場とは逆方向の仁王門から境内に入ります 仁王門 仁王門を越えて、長い参道が続く 参道の途中にある北舎心嶽は梯子で登る 北舎心嶽 梯子を登ると祠がある。 護摩 堂 納経所の手前に龍天井の案内看板 龍天井 納経所の前を通り、鐘楼門へ。 鐘楼門を潜ると、この風景。 階段の上に多宝塔 本堂 橋の向こうに大師堂。 高野山の奥の院のような風景。 大師堂の手前左に、中興堂:長範僧正(第4世・平安後期)と亮山僧正(第22世・江戸前期)を祀っている。 大師堂 中興堂 大師堂には、奥殿の道標 奥殿は、工事中で、足場が組まれていた  納経所の横の休憩所に、いわや道の記事が貼られていた。 21番 奥之院 南舎心嶽 21番 奥之院 黒滝寺

20番札所 鶴林寺[かくりんじ]

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霊鷲山 宝珠院 鶴林寺 四国八十八霊場 20番 鶴林寺 本尊:地蔵菩薩 本尊真言:おん かかかびさんまえい そわか ご詠歌:しげりつる 鶴の林を しるべにて 大師ぞいます 地蔵帝釈 ←19番 立江寺 →21番 太龍寺 地元の人や遍路からは「お鶴さん」と呼ばれ親しまれているが、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つで、標高570mの山頂までの表参道は「へんろころがし」といわれる急傾斜の山道である。 寺伝によれば、延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願によって空海(弘法大師)が開創。 寺伝によれば、空海がこの山で修行中に雌雄の白鶴が杉の梢で小さな金の地蔵菩薩像を守護していた。空海はそれを見て、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた1寸8分の地蔵像を納めて本尊として鶴林寺の寺名を定めた。 境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることから山号にいただいたという。 平城、嵯峨、淳和の各天皇からの篤い帰依、源頼朝、義経、徳島藩祖蜂須賀家政などからの信仰も受けて大いに栄えた。 本尊の伝承として、昔、猟師が猪を追って山に入り矢を放ち、たどって行くと本堂で地蔵菩薩の胸に矢がささり血を流していた。 猟師は殺生を懺悔し仏門に入ったということから矢負いの地蔵と呼ばれ、本尊にはその傷が残っていると云われている。 山門を入ってしばらく参道を進むと右手に六角堂があり、さらに進むと左手に手水鉢があり右に70段の石段がある。 石段下の右手に忠霊殿、左手に護摩堂と大師堂があり、石段を上り詰めると本堂が建つ。本堂の周辺に鐘楼、三重塔がある。納経所は大師堂の先にある。 【2016年12月18日 車遍路】 仁王門 本堂:左右に鶴像 大師堂 三重塔 【2017年12月8日 歩き遍路にて】 仁王門  仁王門を過ぎて、見上げると、三重塔 手水場の向かいに弘法大師像 手水場を過ぎると、納経所と大師堂がある。 納経所手前の階段の上に、本堂 「ふれあいの里 さかもと」で一緒だった青年お遍路さんが、先に着いて、納経中 本堂 大師堂 20番 奥之院

20番 奥の院、四国別格二十霊場 3番札所 慈眼寺[じげんじ]

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月頂山 宝珠院 慈眼寺 四国八十八霊場 20番 奥の院 四国別格二十霊場 3番 本尊:十一面観音菩薩 御詠歌:天(あま)とふや 鶴の奥山 おくたへて 願ふ功力に 法(のり)ぞ通はむ ←2番 童学寺 →4番 鯖大師本坊 寺伝によれば 平安時代 初期の 延暦 年間( 782年  -  805年 ) 四国 を巡錫中の 空海 (弘法大師)が、邪気の漂う不思議な 鍾乳洞 を発見した。洞窟の入口で数日間、 加持祈祷 を行ったところ悪 龍 が洞窟より出て空海を襲った。空海は法力で悪龍を洞窟の壁に封じ込めた。また、十一面観音を刻んで洞窟の前に堂宇を建立し安置した。これが慈眼寺の開創と伝えられている。 【2016年 逆打ち 車遍路】 本日の1ヶ寺目。 朝7時過ぎに太龍寺ロープウェイ乗り場に着いたのに、ロープウェイは8時からだったので、先に慈眼寺へ 駐車場は、下に大型車用があり、上に普通車用になってました。 自分は、上にもあるのが分からず、下に駐めてしまいました。 駐車場から、すぐ大師堂はありました。 本堂が分からないので、お寺の人に聞くと、ここから15分くらい山を登った所にあるとのこと ↓ここから登ります。 ↓本堂の手前に、穴禅定の時に白衣に着換える場所がありました。 本堂 登ったけど、岩屋寺よりキツかった。 下のチビを連れて来るのを止めといて良かったです。 御朱印

4番札所 大日寺[だいにちじ]

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黒巌山 遍照院 大日寺 四国八十八霊場 4番 大日寺   本尊:大日如来 本尊真言:おん あびらうんけん ばざらだどばん ご詠歌:眺むれば 月白妙の 夜半なれや ただ黒谷に 墨染めの袖 ←3番 金泉寺 →5番 地蔵寺 寺伝によれば空海(弘法大師)がこの地での修行中に大日如来を感得、一刀三礼して1尺8寸(約55cm)の大日如来像を刻み、これを本尊として創建し、本尊より大日寺と号したという。山号の黒巌山は、この地が三方を山に囲まれ黒谷と呼ばれていたのが由来で、黒谷寺(くろたにでら)とも呼ばれていたという。 荒廃と再興を繰り返したが、徳島藩5代藩主蜂須賀綱矩の篤い帰依を受け、江戸時代中期の宝暦(1751年 - 1763年)ころには堂塔の大修理が行われた。1998年(平成10年)から2015年(平成27年)まで住職を務めた真鍋俊照は仏教美術学者として著書多数あり。 平成の大修理として、平成26年より、大師像、弥勒菩薩坐像、三十三観音像、そして本尊・大日如来坐像が順次修復され開帳された。 【2016年 逆打ち 車遍路】  13番と同じ名前。 時間が、ギリギリなので、先に納経所へ 山門を入る時にまえを歩いてた女子達は台湾人かな?北京語を話してた。 山門 本堂 大師堂 ココでは、納経帳と居る人の確認があった。 その事は、事前に知ってはいたが、本当に、毎回、確認されるみたい。 自分の前の人は、わざわざ、車で待ってる旦那さんを呼びに行ってた。 御朱印 今日は、88ヵ所が14ヶ寺、別格1ヶ寺。計15ヶ寺回った。 今までで一番多く回った。 多く回りすぎて、途中で用意していたロウソクが無くなる事態に 【2017年10月8日 歩き遍路にて】 晴れてきたからなのか、ここは、参拝者が、多かった。  本堂 大師堂 納経所で、住職は、自分の納経帳を見て、高知製本のモノと、すぐ分かったようで、納経帳の話を少しした。 住職は、高知製本に風神雷神の納経帳を作ってもらって、販売していた。