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新四国曼荼羅 18番 善性院

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七宝山 善性院 新四国曼荼羅霊場 18番 宗派:高野山真言宗 本尊:薬師如来 所在:香川県三豊市詫間町詫間3676 ←17番 仏母院 →19番 妙音寺 荘内半島の頭に位置した詫間は、海岸美に富み、そこかしこに浦島太郎の伝説がある。その昔、政治・経済の中心地として栄えた集落に善性院がある。地元ではセ福即生、走り大黒天の信仰が喧伝されていた。秘仏の像容からだろう。今にも走り出そうとすることから生じた。仏の願意に、神足通ノ願がある。 当寺の開基を行基菩薩という。竜光寺と称し、本尊に薬師三尊を安置する。戦国時代にこの地を領した詫間氏の菩提寺として栄えたが、これもそう長くは続かなかった。修羅没義道を推輓した長曽我部氏の兵火に焼失し、光を放った法城も焦土と化した。栄枯盛衰は世の常とはいえ、あまりの無情に失意したという。再建は江戸期に入ってからであった。 境内に山門、本堂、護摩堂、大黒天堂がある。瞠目したのが内陣の祭壇である。諸尊が唐木の宮殿内に納められている 駐車場から進むと門がある 本堂で、上がらせて頂いて納経 反対側に山門がありました 御朱印

新四国曼荼羅 20番 延命院

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七宝山 延命院 新四国曼荼羅霊場 20番 延命院 勝楽寺 宗派:真言宗単立 本尊:釈迦如来 所在:香川県三豊市豊中町上高野858 ←19番 妙音寺 →21番 伊舎那院 当地は上高野城岡と言い、石器時代より肥沃な田園が広がっていた。 古来よりこの岡には、地域の祖先の霊が鎮まり、一体を治めた富豪の墓「延命古墳」が残されている。 又、今より1100年前、菅原道真公は讃岐の国司に任ぜられ、仁和三年に巡察の折り、三野郷が五穀豊穣・風雨順時でとこしなえに栄えんことを祈って、「一」の字を奉納された。 そして、南北朝時代には(城)塁を構えていた。 このように、古来より歴史的に存在価値のある大地である。 当院は弘法大師(空海)に開基で、天正年間、長宗我部元親の兵火にあい灰塵に帰した。その後、再興され天正十五年、国主生駒親正公は讃岐十五カ院(真言宗)を設定、延命院勝楽寺と号され、古刹の保護に努めたと記されている。 正月には七福神(毘沙門天)参りと共に「一字」一願成就ご利益参りも有名である。  本堂 御朱印

70番奥の院、新四国曼荼羅 19番 宝積院 妙音寺

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七宝山 宝積院 妙音寺 四国八十八霊場 70番 奥の院 新四国曼荼羅霊場 19番 四国三十六不動30番 宗派:真言宗 大覚寺派 本尊:阿弥陀如来(国の重要文化財) 所在:香川県三豊市豊中町上高野1986 ←18番 善性院 →20番 延命院 寺伝によれば、飛鳥時代天武天皇治世の白鳳5年(665年または676年)に創建されたと言われ、讃岐国最古の寺院の一つと伝えられる。 平安時代初期の弘仁年間(810年 - 824年)嵯峨天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)によって現在の寺号となったと伝えられている。 戦国時代に入り天正2年(1574年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭った。この時、本尊の阿弥陀如来は自ら雨を降らせて難を逃れたと伝わっている。 天正の戦火で寺院は荒廃した。その後、江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1716年)旭応阿闍梨によって復興された。また、寛政年間(1789年 - 1801年)に清雅恵洞和尚が伽藍を整備した。 当寺院に祀られている不動明王は霊験不動尊と言われ、祈念すると夢の中でお告げがあると言われることから、別名「夢見不動」とも呼ばれている。 木造阿弥陀如来坐像(国の重要文化財):ヒノキの寄木造、漆箔。像高232cm。平安時代後期の作と推定される。大正8年(1919年)8月8日指定。 山門 本堂 交通事故犠牲者の霊を祀る聖観音立像 彫刻家の北村西望が監修して製作されたものである。 奥之院の御朱印 新四国曼荼羅霊場の御朱印

新四国曼荼羅 23番、68番 元札所 琴弾八幡宮

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琴弾八幡宮 新四国曼荼羅霊場 23番 四国八十八ヶ所霊場 68番 元札所  主祭神:応神天皇、神功皇后、玉依姫命 ←22番 密蔵寺 →24番 宗林寺 社伝では、大宝3年(703年)3月、琴弾山で修行していた日証上人が八幡大菩薩の乗った船が近くに漂着したのを見つけ、里人とともに船を山頂に運び祀ったのに始まると伝える。そのとき、船の中から琴の音がしていたことから「琴弾」の社名がある。同時に当社の神宮寺として、後に第69番札所観音寺となる神宮寺を建立した。 大同2年(807年)、四国を行脚中の空海が当社に参拝し、琴弾八幡の本地仏である阿弥陀如来の像を描いて本尊とし、琴弾山神恵院(じんねいん)として四国霊場第68番札所に定めたという。 中世には源氏の崇敬を受けた。源頼義は前九年の役に前に使いを立てて願文を納め、その子の義家は社殿を造営し、神馬を奉納した。義経は屋島の戦いの後に平家追討を祈願して馬と鳥居を奉納し、頼朝は1千貫文の土地を寄進した。 明治の神仏分離により、本地・阿弥陀如来像は観音寺境内の西金堂に移され、琴弾神社と神恵院に分離された。第二次大戦後、琴弾八幡宮と復称した。 大鳥居を抜けると右に参道が続く 381段の階段 本殿 拝殿横を通りぬければ、琴弾公園銭形展望台へ行くことができる。 御朱印

新四国曼荼羅 21番 伊舎那院

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北田山 伊舎那院 新四国曼荼羅霊場 21番 宗派:真言宗単立 本尊:如意輪観世音菩薩 所在:香川県三豊市財田町財田中4258 ←20番 延命院 →22番 密蔵寺 当山は聖徳太子の開基と伝えられ、中興は弘法大師の法孫にあたる聖宝理源大師、本尊は等身大の六臂の聖如意輪観世音菩薩、安産子授けの霊験あらたかで、無事成長・学徳成就など子供さんの縁が深い寺である。 往古は末寺二十四ヶ寺を有し院家格にて讃岐十五院(西讃五カ院)の一院として丸亀藩の祈雨の寺とし百二十を有していた。 また古来より金毘羅大権現別当金光院との縁も深く、現在山門に安置している仁王像二対は、長宗我部元親が象頭山に寄進せし像と伝えられ、南北朝時代の尊像である。 当山は幾度の戦火・災害の為、創建当時の建物・古文書等は現存していないが、現在も大堂円満の道場として法灯を受け継いでいる。  本堂 大師堂 明治時代に建立された六角経蔵には,京都宇治の黄檗山萬福寺の僧鉄眼和尚が十二年間の苦労の末完成させた黄檗版一切経数千冊が収められており、輪蔵を一回まわすと経を読誦した功徳が授かるといわれている。 石造宝塔 御朱印

番外札所 砥石観音堂

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 讃岐三十三観音霊場 第十三番萬福寺 奥の院 大同3年(808年)、弘法大師が四国霊場第七十番札所の本山寺を建立するにあたり、その材木を集めていた際、なたや斧などが刃こぼれし伐採に困難を極めていました。行脚の僧が差し出した砥石で道具を研いだところ短日で切り出すことができました。その後、村人が砥石を持ち帰り、お堂を建立して安置したと伝えられています。 階段を登ると観音堂

新四国曼荼羅 22番 密蔵寺

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瑠璃山 密蔵寺 新四国曼荼羅霊場 22番 宗派:高野山真言宗 本尊:薬師如来 所在:香川県三豊市財田町財田3370 ←21番 伊舎那院 →23番 琴弾八幡宮 当山は聖宝理源大師が開かれ、御本尊薬師如来様は恵心僧都の御作と伝えられており、財田薬師(たからだやくし)と愛称され、厄除け、病気平癒、寿命長寿に霊験あらたかです。 昔は、此の地から一キロ程奥に本篠成というお城があり、城主財田左兵衛頭義宗公の祈願院として、相対した山上に金堂坊舎が建ち並んでいました。 しかし、天正七年(1579年)春、土佐より長曽我部元親が五千余の兵にて攻め来たり、お城共々灰燼に帰しました。その戦乱の中、当地篤志の働きによりご本尊さまは無事運び出されました。村人は霊感を感じ、彼の地に草庵を結び御本尊様を安置していましたが、後の当村の亭長、不思議の霊夢を受け、元和から寛永改元(1623年)の頃、青蓮寺密蔵坊の古跡を此の地に移して現在に至っています 山門 本堂 御朱印