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88番 奥の院 胎蔵峯寺

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胎蔵峯寺 四国八十八ヶ所霊場 88番 奥の院 本尊:阿弥陀如来 大窪寺の本堂西側にそそりたつ女体山に奥の院があります。 弘仁6年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院にある岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。 大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられます。その水を薬とともに服用し、ご利益を受ける人も少なくありません。 女体山の登山道かの分岐から500m程進むと、88番 奥の院 胎蔵峯寺が見えてきます 下に見える小屋が本堂のようですが、中は見ることは出来ませんでした お堂の横には2つの祠 大窪寺で頂いた奥の院の御朱印

87番 奥の院 萬願大師堂、新四国曼荼羅 9番 玉泉寺

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霊雲山 玉泉寺 四国八十八ヶ所霊場 87番 奥の院:萬願大師堂 新四国曼荼羅霊場 9番: 玉泉寺 宗派:天台宗山門派 本尊:日切地蔵菩薩 ご詠歌:もろ人の 願いをかくる 地蔵尊 日切の誓い あらたなりけり 所在:さぬき市造田宮西1022-2 ←8番 西教寺 →10番 自性院 寺伝によれば、平安時代初期の弘仁5年(814年)に空海(弘法大師)が、この地で紫雲の光明を放つ霊石を感じ、地蔵菩薩を安置したのが始まりと伝えられる。空海は、日を限ってこの地蔵菩薩を念じれば功徳があると告げた。 明治時代初期に廃寺となった。昭和5年(1930年)観音寺町(現・観音寺市)にあった玉泉寺を移転合併し復興した。山門は霊芝寺より移転したものと伝わっている。 本堂の前には境内いっぱいに藤棚がある。 手水場 大師堂は、本堂の左横の祠であり、中に修行大師石像 萬願大師堂(奥の院) 奥之院の御朱印 新四国曼荼羅霊場の御朱印

39番 元札所 新四国曼荼羅 56番 石見寺

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浄瑠璃山 東光院 石見寺 新四国曼荼羅霊場 56番 四国88ヶ所霊場 39番 元札所 宗派:真言宗豊山派 本尊:薬師如来 ご詠歌:いくたびも まいるこころは 石見寺(いしみでら) 瑠璃の光も あらたなるらん 住所:高知県四万十市安並4288 ←55番 鳳彩寺 →57番 観音寺 往古は四国八十八ケ所霊場の随一であり第39番札所であったが城下に遍路が入るのを嫌い札所を返上したと伝えられる。また、一条氏の時代には、この寺を比叡山延暦寺にみたてた鎮守寺であった。 縁起によれば、創建は大同年間と記されている。旧中村市を一望出来る場所にあり、山内一帯に、ミニ八十八ケ所があり桜の名所である。 かなり急勾配の登り坂を登ったところの駐車場から階段の上に山門 山門 本堂 大師堂 ぼけ封治榎地蔵 納経所 御朱印

38番 奥の院 白山神社

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白山神社 四国八十八ヶ所霊場 38番 奥の院 元々、38番 奥の院は、白皇山の山上にあった白皇神社 大正5年に、白山神社と合祀された事で、白山神社が奥の院となった 白皇神社 元来は金剛福寺が創建されたとされる平安時代初期の弘仁13年(822年)に、白皇山真言修験寺として創建された。 現在地の北方にある白皇山(標高433m)の山上にあって、白皇権現を本尊として祀っていた。明治初期の神仏分離令により廃寺となり、白皇神社と称した。 大正5年(1916年)に白山洞門にある白山神社と合祀され現在地に遷座した。以後、足摺岬集落の氏神となっている。 白山神社 もと白山権現と称し、加賀の白山神社から勧請され、白山洞門の上に祀られていた。大正5年(1916年)、白皇権現と合祀され、現在の位置に社殿が造営された。白山神社はもと金剛福寺の守護神の1つで、代々土佐藩主・山内氏の信仰篤く、藩が社の修造に関与したことを示す棟札が金剛福寺に伝わる。また、社宝として桃山時代の作とみられる木造の狛犬一対を所蔵する。  27号線に面した入口には「白山神社」と書かれた額を掲げる鳥居 拝殿には「白皇山」という額が掛かっている

番外札所 月山神社(守月山 月光院 南照寺)

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月山神社(守月山 月光院 南照寺) 番外札所   住所:高知県幡多郡大月町月ヶ丘1443 白鳳時代、役の行者(役小角)が山中で三日月の霊石を発見し月夜見命、倉稲魂命を奉斎したことに始まる。その後、空海(弘法大師)が巡錫し、霊石の前で二十三夜月待の密供を行ったと伝えられている。明治の神仏分離以前は「守月山 月光院 南照寺」と号する勢至菩薩を本尊とする寺であったが、それ以降は月山神社と改称された。 月山神社 社務所 月山神社の隣には大師堂

新四国曼荼羅 55番 鳳彩寺

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栄松山 鳳彩寺 新四国曼荼羅霊場 55番 宗派:曹洞宗 本尊:如意輪観世音菩薩 ご詠歌:父母の恵みも深き 鳳彩寺参りて拝む南無観世音 住所:高知県宿毛市小筑紫町伊与野474 ←54番 泰平寺 →56番 石見寺 宿毛湾を臨み、南へ下った小筑紫の山麓に天満宮がある。延喜元年(901)大宰府に配流となった菅燥道真公が漂着した。この勝緑に因んで社殿が造営された。地名の由来も筑紫野に依るという。 国道に沿った部野の集落に鳳彩寺がある。観音信仰を皷吹し、寺門興隆の萌芽が窺えた。地方にあって曹洞禅提唱の道場である。 寺号の起りは群馬県という。中世に高知市内へ移り、初代山内可氏の代に宿毛の地を与えられたようである。理由は定かでないが、始祖・伊賀氏の緑に依るものか,伊賀氏は美濃の豪族であった。道元禅師に帰依し、影のカとなった。可氏はその後胤で、山内一豊の甥にあたる。宿毛一国を支配した。 鳳は稀瑞の霊鳥、羽をひろげた彩は仏法の華である。境内にそれを見た。竃ノ神、荼枳尼天、如意輪観音を勧請し、中尊に釈迦牟尼如来を安置する。そして、仏の庭に百日紅が咲いていた 鳳彩寺までの道は、かなり狭かった 境内まで来るまで上がれるので、一度、山門から出て写真を撮った 山門 本堂 本堂の内部 御朱印

新四国曼荼羅 10番 自性院

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微雲窟 自性院 常楽寺 新四国曼荼羅霊場 10番 宗派:真言宗善通寺派 本尊:不動明王 住所:香川県さぬき市志度1105 ←9番 玉泉寺 →11番 田村神社 志度寺の塔頭である自性院の御本尊は不動明王であるが、正面は弘法大師をまつっている。 これは、本堂の場所は、元志度寺の御影堂の跡とも伝えられている。 自性院は、天正年間に志度に来往し繁栄した摂津兵庫県の豪族多田和泉守一族の創建になる。 さぬき良寛さんと呼ばれている竹林独雄上人は、天明4年(1784)に第七代目の住職となった。 上人は、人に衣食を分け与え、子供ともよく遊び、蟻を踏まなかったり、蚊に自分の血を供養したりした。 また、純無垢な上人の書画にも見るべきものがある。 平賀家は自性院の檀家である。源内さんは本草学薬草研究の他に、エレキテル、火浣布、平線儀、寒熱昇降器等の創製、鉱山開発、西洋画、陶法伝授等でも有名である。 86番 志度寺の山門の手前の参道の左側に新四国曼荼羅 10番 自性院はある 御朱印