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新四国曼荼羅 52番 永照寺(バラ大師)

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霊光山 永照寺 新四国曼荼羅霊場 52番 宗派:曹洞宗 本尊:釈迦如来 住所:愛媛県西予市野村町阿下5-974 ←51番 龍澤寺 →53番 善福寺 愛媛県西予市野村町にある「バラ大師」(ばらだいし)は永照寺とも呼ばれ、弘法大使ゆかりのお寺。本堂裏には、大師が野宿をした際、とげを封じ込めたと伝えられる「とげなしバラ」が現在でもある。このバラは祈ればご利益が、他の地に移すと災難に遭うと言われる不思議なもの。境内には、他にもぼけ除けと智慧授けの地蔵くぐりや祈願すれば願いが叶うといわれる南無大願王地蔵菩薩もあり、毎年4月と7月には四国八十八ヶ所の土砂を讃仰して、「お砂踏み」も行われている。 手前の墓地にある駐車場に車を停めて永照寺に向かう   山門はなかった 手水舎 本堂 本堂の左手には水子地蔵 本堂の左側から裏手へ 本堂の後ろにあるぼけ除けと智慧授けの地蔵くぐり 棘無しバラ 確かに普通のバラと比べると棘が少ない 棘無しバラの中に立つ大師像 バラ大師 六波羅蜜井戸 南無大願王地蔵菩薩 御朱印

武蔵国 一之宮 氷川神社

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氷川神社 武蔵国 一之宮 御祭神:須佐之男命・稲田姫命・大己貴命 住所:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407 氷川神社は社記によると今から凡そ2,400年以上、第五代孝昭天皇の御代3年4月未の日の御創立と伝えられている。 御祭神、須佐之男命は天照大御神と月読命とともに伊弉諾命から生まれた三貴子の一神で、八俣大蛇退治など力強く雄々しい神として知られている。 大己貴命は須佐之男命の御子に坐して国土を天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)に御譲りになられた国土経営の神。 稲田姫命は須佐之男命の御妃で大己貴命の御母神。 この御三神をここにお祀りされたのは国土経営、民福安昌祈願のためであって、大和朝廷の威光が東方に及ぶにつれて、当神社の地位も重くなったと考えられている。 神社の鎮座する地は、大宮台地の上にあり、その中でも鼻のように高く突き出た位置にある為、一帯の地名は高鼻町と呼ばれている。かつて神社の東側には見沼と呼ばれる広大な湖沼があり、豊かな土壌を形成する元となっていた。「神沼」、「御沼」とも呼ばれた見沼は正に豊かな恵みを与えて下さる神聖な水をたたえた湖沼で、江戸時代に開発された見沼溜井は周囲約39キロに及ぶ大貯水池だった。現在境内にある神池は見沼の名残であるといわれ、神域の蛇の池からの湧水が豊富に注がれている。 地理的な点から見ても、見沼をひかえ土地は肥沃で東西南北に交通の便もよく、人々は益々繁栄し今日の基をなすに至ったものと思われる。 第十二代景行天皇の御代、日本武尊は当神社に御参拝し東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっている。第十三代成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝廷の命により武蔵国造となって氷川神社を奉崇し、善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を高めたと伝わっている。 今から凡そ1,200年前の聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預かり、又臨時祭にも奉幣に預かる等、歴朝の崇敬を殊の外厚く受けていた。 また武家時代になっては、鎌倉・足利・北条・徳川氏等相次いで当社を尊仰し、治承四年源頼朝公が土肥次郎実平に命じて社殿を再建、文禄5年8月には徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行として社頭残らずを造営せしめ、寛文7年3月には阿部豊後守を奉行として社殿の建立をしている。この社殿は御嶽神社、天

「一の宮巡拝会」の御朱印帳の残念なところ

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一之宮参拝のきっかけ 仕事で全国にある自社ビルに出張する機会が多く、今回、出張予定の埼玉で1日休暇を取得する事になったので、埼玉の観光地を調べていると、支店のすぐ近くに武蔵国一之宮 氷川神社があるのを初めて知って、ビックリ。 氷川神社のある大宮公園や氷川神社の参道は歩いた事はあったが、まさか一之宮とは。 一之宮とは 一之宮とは令制国で最も社格の高いとされた神社の事で、諸国において由緒の深く信仰が篤い神社であり、開拓神として土着の神が祀られている事が大半。 古代から土着の神として最も崇敬された神社が必然的に一之宮となっている。 律令制において国司は任国内の諸社に神拝すると定められていた。 そのため一之宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると云われいて、国司が赴任後に一番最初に神拝していた神社が一之宮であった。 律令制崩壊の後も、その国の第一の神社として一之宮の称号は使われ続けた。 通説では十一世紀から十二世紀にかけて成立したとされる。 一之宮巡拝の歴史は、江戸時代前期の神道家・橘三喜が、延宝三年(1675)から元禄十年(1697)まで、23年かけて全国の一之宮に参拝し、その記録を『諸国一宮巡詣記』全13巻として著した事が知られている。 一之宮を参拝してみようかな 四国八十八ヶ所霊場の流れで、四国の一之宮(大山祇神社・田村神社・大麻比古神社・土佐神社)は、参拝済み。 その他の自社ビルの周りに自社ビルがあるか調べてみると、他にも支店から、少し足を伸ばせば参拝できる一之宮が数ヶ所有る事が分かり、一之宮巡りをしてみようかと思い、専用の御朱印帳を探してみた。 一之宮専用御朱印帳 一之宮専用の御朱印帳を販売しているところは少なく「全国一の宮会」、「全国一の宮巡拝会」、「一の宮巡拝会」で販売していた。 全国一の宮会:11×16cm(A6版)、1,000円 全国一の宮巡拝会 :18×26cm(B5版)、5,170円 御朱印 | 一の宮とは | 一の宮巡拝会 :18×26cm(B5版)、15,000円と7,000円の2種類 自分は、B5版の大きい御朱印帳の方が好みで、B5版の安価な「全国一の宮巡拝会」が販売している御朱印帳にしようかと思ったが、どうも、この御朱印帳、ツルツルの紙質で墨を吸わないとの情報があり、和紙を使用している「一の宮巡拝会」が販売している四

知知夫国 秩父神社

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秩父神社 御祭神:八意思兼命・知知夫彦命・天之御中主神 住所:埼玉県秩父市番場町 1-1 秩父神社の創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされている。武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至る。 元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられている。 また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復した。 その後、昭和3年には國幣小社の社格となり、現在は神社本庁の別表神社となっている。 平成26年には御鎮座2,100年を迎え、同年12月3日の例祭において天皇陛下より臨時御奉幣を賜り盛大に祭典が執り行われた。 現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されている。 鳥居を抜けると神門が見えてくる 拝殿 権現造(ごんげんづくり)と言われる建築様式で、鮮やかな色の彫刻が施された豪華な作りが特徴。 江戸時代初期に活躍したとされる、日光東照宮や出雲大社なども手がけた左甚五郎(ひだりじんごろう)の作品が多くあり、見どころとなっている。 拝殿正面の左右に「子宝、子育ての虎」 正面左側の「子宝 子育ての虎」は江戸時代の初期に活躍していた左甚五郎(ひだりじんごろう)が彫ったとされている注目の彫刻。 徳川家康公の威厳や、祭神を守る神の使者として作られたものとされている。 親の心得 「赤子には肌を離すな 幼児には手を離すな  子供には目を離すな 若者には心を離すな」 拝殿の側面 本殿の側面の「お元気三猿」 「日光東照宮」では「見ざる・言わざる・聞かざる」という表情をした猿が有名ですが、秩父のお猿さんは正反対。 秩父神社の「お元気三猿」は「よく見て・よく聞いて・よく話す」をコンセプトにしている。 本殿後ろ側の「北辰の梟」 体の向きは正面にある本殿へ、頭は正反対の北を向いている。 この梟が見つめている方角に「秩父神社」