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34番 奥の院 本尾山

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本尾山 四国八十八ヶ所霊場 34番 奥の院 山の斜面に作られた簡素な堂に薬師如来(薬師瑠璃光如来)が祀られている。 以前は大師が一晩で刻んだとされる薬師瑠璃光如来像が安置されていたと伝わるが、戦後の混乱期に盗難に逢い、現在は薬師瑠璃光如来を模した石仏が安置されている。 納経は種間寺で行なっている。ただ、以前は御影の授与があったが現在は無い。 川沿いの巨岩と黄色い看板が目印 駐車場は無いので、少し手前の少し道幅が広い場所に路上駐車 入口 階段を登ると槇の木が3本 奥の院の石碑 巨岩の前に小屋 奥の院は、この中 初めは、扉を開けても良いのか少し躊躇 扉を開けて左側に照明のスイッチがあったが、スイッチを入れても点かなかった 扉の正面に「弘法大師のもたれ岩」 弘法大師のもたれ岩 祠 御朱印は、種間寺で頂ける

36番 奥の院 波切不動

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波切不動 四国八十八ヶ所霊場 36番 奥の院   弘法大師は延暦23年唐に渡り、長安の青龍寺で恵果和尚より真言密教の奥義を授けられ、真言八祖となられた。 帰国にあたり恩師報恩の為、一宇を建立したし、最勝地に留まれ。と独鈷杵を日本に向かって投げられた。 後に当地の古松にかかっている独鈷杵を感得され、ここに一宇を建立、寺号を『独鈷山青龍寺』として、不動明王の石像を安置された。 奥之院の場所は、青龍寺を通り過ぎ、横浪黒潮ラインの途中で、国民宿舎『土佐』の方に入って行くと事前に確認していたが、国民宿舎『土佐』(2017年閉店)が、リゾートホテル ヴィラ・サントリーニに変わっていて、入口を一度通り過ぎてしまった 引き返して、入口から少し進んだところに、奥の院の駐車場と入口があった 奥の院 入口 少し進むと奥の院に到着 境内は、土足禁止との事 側にサンダルがあったので、履き替えて進む 下駄箱の横の札の文字が消えていたので分からなかったが、素足で参拝するのが正しい事は、後日、分かった どうもこの札には「鳥居より先、素足にてお入り下さいませ。雨天時は、お履物、履き替えお願い致します」と書かれていたようだ 奥の院:独鈷山不動堂 不動堂の両脇に、天狗?河童?修験者?

新四国曼荼羅 57番 観音寺

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無量山 観音寺 新四国曼荼羅霊場 第57番 宗派:真言宗智山派 本尊:聖観世音菩薩 ご詠歌: 補陀落や 岸に寄せ来る 白波の 返すがへすも 誓い頼まん 住所:高知県須崎市大間西町12-2 ←56番 石見寺 →58番 峰興寺 寺伝によれば、聖徳太子が四天王寺を建造するために百済より仏師や工匠を招聘した。敏達天皇15年(585年)、その帰途で須崎沖で台風に遭い須崎湾に漂着した。一同が観音像を刻み、この地に寺院を建立し海上交通の安全を祈願したことが当寺の始まりと伝えられている。 天武天皇13年(684年)10月14日に当地で大地震が起こり須崎湾が大陥没した。この地震により観音像は堂ヶ奈呂に流されたとされる。 その後、平安時代中期の延喜3年(903年)宮ノ中土居山へ移され、戦国時代の元亀3年(1572年)に竹ノ鼻、大正15年(1926年)に現在地へと移転した。 平安時代前期の弘仁10年(819年)頃、弘法大師がこの地をに巡錫した。少年が栗を持っていたので一つ所望したところ、持っていた栗を全て差し出した。大師は少年を誉め、その栗の木を祈念した。すると一年に三度実をつけるようになったという三度栗の伝説が残っている。 本堂は、階段を登って2階 三度栗の木 御朱印

新四国曼荼羅 58番 峰興寺(ほうこうじ)

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金峯山 峰興寺 新四国曼荼羅霊場 第58番 宗派:法相宗 本尊:文殊菩薩 ご詠歌:御嶽山 真如の月に 照らされて 佛の知恵は 峰興寺 住所:高知県高岡郡越知町越知甲1633  ←57番 観音寺 →59番 薬師寺 開基は徳川家康の異母弟、松平定行である。三河國から密上演浄禅師を迎えて開山したと云う。元は松山にあった。藩主の菩提寺として栄えていたが排仏毀釈で衰退、名跡を 惜しみ明治の中頃、官許を待て当所に移転再建したもので県内外の信仰は知恵の文殊であるが、加持祈祷の専門道場として名高く人々の心の支えと成っている。 旧六月二十四日(本年は七月廿五日火曜日)の文殊大祭は柴灯大護摩を勤修し越知町夏の夜祭りとして有名である。 山門 本堂 一言観音菩薩 御朱印

32番 奥の院、新四国曼荼羅 59番 薬師寺

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岩屋山 薬師寺 四国八十八ヶ所霊場 32番 奥の院 岩屋観音堂 新四国曼荼羅 59番 宗派:真言宗豊山派 本尊:薬師如来 ご詠歌:みな人の 病みぬる年の 薬師寺 瑠璃のくすり あたえめしませ 住所:高知県高知市介良丙1832 ←58番 峰興寺 →60番 閑慶院 平安時代末期、平治の乱で敗れ土佐国介良荘に流罪となっていた源希義が、同母兄頼朝の挙兵により平家より謀反の嫌疑をかけられ討たれた。希義の師であった琳猷上人は、その死を悼んで寺院を興し希義の念持仏を安置したといわれる。これが当寺院の始まりであると伝えられている。 岩屋観音堂 : 本堂の段を更に約20分ほど登った山頂近くにあり、このお堂は四国八十八箇所 第32二番札所 禅師峰寺 奥の院とされている。本尊は十一面観世音菩薩。 平地にあると思いこんで、近くになっても建物が見当たらず、しばらく付近をウロウロ 少し離れた場所から山を見ると上の方に続く階段と建物が見えて、納得 下の駐車場に車を停めて、長い階段を登る 登りきった所に、厄除修行大師像 本堂 新四国曼荼羅の御朱印

31番 奥の院 船岡堂

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船岡堂 四国八十八ヶ所霊場  31番 奥の院   本尊:不動明王 廃仏毀釈によって廃れていた竹林寺の再興に努力した明治中期の住職船岡芳信和尚に因んだ堂 多宝塔と本堂の間の道を奥に進む 少し歩くと右手に船岡堂 船岡堂 納経及び御影の授与は竹林寺納経所にて。

新四国曼荼羅 60番 閑慶院(かんけいいん)

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吉峰山  閑慶院 新四国曼荼羅霊場 第60番 宗派:曹洞宗 本尊:阿弥陀如来 ご詠歌:童謡の調べに和する鐘の音は 吉あり慶あり道ひらくてら 住所:高知県安芸市井ノ口乙2029 ←59番 薬師寺 →61番 定福寺 創建年代は明らかではないが、永録年間(1558~70)浄貞寺三世昌岩天久大和尚を勧請してご開山とした。 幕末維新後、大政官布告(明治初年)による廃仏没釈風潮の高まり に、県下寺院のほとんどが廃寺となり当寺も例外ではなかった。 時の住職泰心和尚が死守やがて檀徒岩崎家(三菱創業)の興隆を背景に大本山永平寺第六十―世環渓密雲禅師を復立開山に拝請し明治十六年三月大本山水平寺御直末寺院として再興のスタートをき った。 岩崎美和刀自(弥太郎・弥之助の母)の死(明治三十年三月) 弥太郎十七回忌にあたり追善供養のため、本堂・鐘楼堂・山門建立資金が寄進され明治三十四年に現在の堂宇ができあがった。 初代凡鐘の供出・終戦・農地解放等々幾多の困難を岩崎家はじめ檀信徒各位のご協力により克服凡鐘再鋳・堂宇修復を重ね現在にいたっている。 入口にあった樹齢600年の椋(むく)の木 本堂 御朱印