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四国別格二十霊場 15番札所 箸蔵寺[はしくらじ]

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宝珠山 箸蔵寺 四国別格二十霊場 15番 四国三十六不動尊霊場 4番 四国三十三観音霊場 28番 金刀比羅宮 奥の院 本尊:金毘羅大権現 御詠歌:いその神 ふりにし世より 今もなほ 箸運ぶてふ ことの尊 ←14番 椿堂 →16番 萩原寺 明治初年の神仏分離令以前、香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮が、象頭山金毘羅大権現と称し松尾寺金光院が別当だったころ、当寺の方は、こんぴら奥の院と称し、現在でもそのように云われている。讃岐の金毘羅さんは神社となっているが、当寺は神仏習合の風習を色濃く残す寺院である。そのため、本殿の参拝方法は拍手による参拝者と納経をする参拝者に分かれるが、どちらも問題はない。 山麓から方丈脇まで箸蔵山ロープウェイが通じているが、境内には階段が多く、金刀比羅宮が本宮まで785段あるにはわずかに及ばないものの、山門前より本殿まで769段ある。なお、方丈より本殿までは278段あるということで般若心経の文字が一文字ずつ付けられ「般若心経昇経段」と名付けられている。 箸蔵山県立自然公園の中に位置し、桜や紅葉等の名所として有名であるが、それ以外に拝むことに真剣に取り組む密教寺院としての側面もある。開山以来、毎日朝夕(6:30と18:00)欠かさず金毘羅大権現のもと護摩殿で護摩祈祷が行われる。変わらず継続することが一番難しいことであるが成し遂げられている。また、赤ちゃんのお箸初め(お食い初め)の箸でも知られている。なお、毎年8月4日には箸供養で、柴灯大護摩や火渡りが行われる。また、節分の星供養は古来よりの伝統を守り、節の分かれ目を大切にして午前0時をまたいで行われる。深夜にもかかわらず多くの参拝者があり、全国より申し込まれた数千のお札、御守りが祈念されている。 伝承によれば平安時代前期の天長5年(828年)四国巡錫中の空海(弘法大師)が、当地に霊気を感じ山上に登った。すると金毘羅大権現が現れ「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」というお告げを空海に授けたという。そこで、空海は自ら金毘羅大権現の像を刻み堂宇を建立したことが当寺院の始まりと伝えられている。 また、金毘羅大権現は当山から讃州象頭山へ日夜眷属と共に往来しているとも云われていた。 寛文7年(1677年)の火災により多くの資料が失われ、明和6年(1769年)に、高野山の霊瑞によって、由緒がまとめられている。

82番札所 根香寺[ねごろじ]

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青峰山 千手院 根香寺 四国八十八霊場 82番 根香寺 本尊:千手観音菩薩 本尊真言:おん ばさら たらま きりく そわか ご詠歌:よひのまの たへふる霜の 消えぬれば あとこそかねの 勤行の声 ←81番 白峯寺 →83番 一宮寺 寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年- 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとし、その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられている。 その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという。 後白河天皇から勅願所として帰依も厚く繁栄したが、戦国時代には兵火にあい衰微した。しかし、慶長年間に高松城主・生駒一正が復興、さらに寛文4年(1664年)高松藩初代藩主松平頼重が再興した。なお、このとき真言宗から天台宗に改宗された。 【2016年 逆打ち 車遍路】 別格19番札所 香西寺から比較的近い82番札所 根香寺 16時30分過ぎに山門前の駐車場に到着。 納経所が閉まる17時まで、あまり時間がありません。 山門を抜けると、階段で1回降りて、また本堂に向かって階段を上らないと行けません。 この1段下がったところ、石畳みの通路に左右からモミジ枝が伸びて、なかなか良い雰囲気です。 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂いて、今日は、ここで、打ち止め。 82番 奥之院

四国別格二十霊場 19番札所 香西寺[こうざいじ]

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寶幢山  香西寺 四国別格二十霊場 19番 四国三十三観音霊場 33番 四国讃州七福之寺 毘沙門天 本尊:延命地蔵菩薩 御詠歌:南無大悲 延命地蔵 大菩薩 みちびきたまへ この世のちの世 ←18番 海岸寺 →20番 大瀧寺 寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基が勝賀山の北麓に庵を結び、宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建したといわれている。この場所は奥の堂と呼ばれており、奈良時代〜平安時代の瓦片が出土することから寺院跡とみなされ、勝賀廃寺と呼称されている。平安時代前期の弘仁8年(817年)空海(弘法大師)が現在地に寺院を移し、地蔵菩薩像を刻んで安置したと言われる。 嵯峨天皇の勅願寺となり、朱雀天皇のとき勅旨讃岐四談議所(他は、萩原寺・無量寿院・極楽寺)の一つとなったが、その後は衰微していたようである。 鎌倉時代になり、この地の豪族・香西左近将監資村が鎌倉幕府の命により寺院を再興し香西寺と名付けた。その後は香西氏の庇護を受けることとなった。 南北朝時代には室町幕府の守護大名の細川頼之が本津(現在の香西東町)に移転し、香西氏11代当主の香西元資が地福寺と改称した。 戦国時代の天正年間(1573年 - 1592年)には戦火により伽藍が焼亡した。桃山時代に讃岐国の大名として配された生駒親正が復興し高福寺と名を改めた。 江戸時代前期の万治元年(1658年)失火により伽藍を焼失し、再び現在の地に移転した。寛文9年(1669年)高松藩初代藩主松平頼重が伽藍を整備し別格本山香西寺と改称した。しかし、その後も失火に見舞われ再建がなされている。 【2016年 逆打ち 車遍路】 一宮寺を後にして、また、海側へ移動します。 まっ、海側といっても屋島寺とは方角が異なるんですが・・・ 別格19番札所 香西寺は、境内横に駐車場があります。 ただ、駐車区画がよく分からず、また、先に入った車が、変な停め方をしたので、空いているスペースが、微妙・・・ 境内の近くの場所は諦めて、少し離れた場所に駐車しました。 仁王門 本堂 毘沙門堂 大師堂兼護摩堂

83番札所 一宮寺[いちのみやじ]

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神毫山 大宝院 一宮寺 四国八十八霊場 83番 一宮寺 本尊:聖観音 本尊真言: おん あろりきゃ そわか ご詠歌: 讃岐一 宮の御前に 仰ぎ来て 神の心を 誰かしらいふ ←82番 根香寺 →84番 屋島寺 寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 – 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 – 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで本尊として安置し、真言宗に改宗した。 1584年(天正12年)の兵火により焼失するも、宥勢大徳により中興される。 延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼常によって田村神社の別当寺を解職され、明治の神仏分離より200年も早く神仏の分離が行われ、現在に至っている。 【2016年 逆打ち 車遍路】 海の近くの屋島寺から平地の奥の方の一宮寺へ。 後から知りましたが、一宮寺は、元々、讃岐一宮の田村神社の別当寺でした。 東に隣接する田村神社側に仁王門があります。 今回は、少し離れた一宮寺の西側の駐車場に停めて、境内には裏側になる西門から入りました。 田村神社に参拝してから、一宮寺に参拝する方が、仁王門から入れるしよいのかもしれません。 次回、試してみます。 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。 【2018年 歩き遍路】 歩き遍路の時にも西門から境内に入る 本堂で納経 境内からは仁王門から出た 83番 元札所 田村神社

84番札所 屋島寺[やしまじ]

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南面山 千光院 屋島寺 四国八十八霊場 84番 屋島寺 本尊:千手観音菩薩 本尊真言:おん ばさら たらま きりく ご詠歌:梓弓 屋島の寺に 詣でつつ 祈りをかけて 勇むもののふ ←83番 一宮寺 →85番 八栗寺 律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中、当地を訪れて開創し、その後、弟子の恵雲が堂宇を建立したという。 その後、古代山城の屋嶋城が閉鎖されたため、その跡地に寺院を創設したものである。なお、ここから1kmほど北の北嶺山上には屋島寺の前身とされる千間堂の遺跡がある。 また、815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、北嶺から南嶺に移し千手観音像を安置し霊場に定めたとも云われている。 明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である。 【2016年 逆打ち 車遍路】 屋島ドライブウェイを通り屋島寺へ。 社会実験で通行料は無料でしたが、駐車場代を取られました。 駐車場前で混雑するので、どちらが良いのやら・・・ ドライブウェイの途中までしか行かない人もいるようなので、そういう人達にしてみれば、この方が良いのかもしれません。 天気が良いこともあって、平日の割には、人が多かったです。 境内は朱色の建物が多く、雰囲気が少し違います。 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。  【2018年 歩き遍路】 歩き遍路の時は、車の時とは反対側から境内に入る 反対側には仁王門がある 本堂 駐車場側の山門から出て、八栗寺へ向かう

85番札所 八栗寺[やぐりじ]

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五剣山 観自在院 八栗寺 四国八十八霊場 85番 八栗寺 本尊:聖観音 本尊真言:おん あろりきゃ そわか ご詠歌:煩悩を 胸の智火にて やくりをば 修行者ならで 誰か知るべき ←84番 屋島寺 →86番 志度寺 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し開基したという。 なお、寺名の由来は二つあり、一つは、空海が唐より栗子を八つ海に投入、漂着した所に仏法が栄えるゆえ、帰国できたときにはその地に寺を建立せんと願をかけたという説と、寺の奥ノ院である五剣山頂上より眺望が良く八つの国が見える、八国寺が八栗寺になったという説がある。 【2016年 逆打ち 車遍路】 山田家で、うどんを食べた後、ケーブルカー乗り場まで行き、ケーブルカーで八栗寺へ。 ロープウェイではなくてケーブルカーなので、レールの上を走ります。(当たり前か・・・) 往復で930円。(高っ・・・。でも歩いて登る元気は無い・・・) 山上駅からは、少し下りながら本堂に向かいます。 納経を済ませて、納経所で御朱印を頂きました。 【2018年 歩き遍路】 歩き遍路の時は、ケーブルカー駅とは反対側から境内に入る   鳥居を抜けると仁王門 本堂

四国別格二十霊場 20番札所 大瀧寺[おおたきじ]

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福大山 大瀧寺 四国八十八箇所 総奥の院 四国別格二十霊場 20番 本尊: 西照大権現 御詠歌:霊峰の 岩間にひらく 法の道 厄をながして 衆生ぞすくわる ←19番 香西寺 徳島県美馬市と香川県高松市の境にある大滝山(標高946m)の山頂近くの標高910m辺りにあり、別格二十霊場(四国八十八箇所を含めても)のうちで最も高所に位置する。明治初期の神仏分離以前は西照神社本殿から西へ約50mの同じ壇(標高935m付近)に当寺本堂があった。また、今は不明になったが、当寺の奥之院が山上にあり滝があったとの伝承がある。往時は、阿波の麓から讃岐の麓まで檀家があったと云われ、夏子ダム方向から来る参詣者が多いが、脇町中央方面からの道で来ると、かつて繁栄していたのがわかる。 伝承によれば、奈良時代の神亀3年(726年)に行基が讃岐側から大滝山に登り山上に一宇を建立し阿弥陀三尊を安置したことに始まるとされる。空海は、青年期に「阿国大瀧嶽ニ躋リ攀ヂ(のぼりよぢ)」て求聞持法を修したと自著「三教指帰」に記しているが、この大瀧嶽は当山とも、阿南市の太龍寺(舎心嶽)ともいう。平安時代前期の弘仁6年(815年)に空海が再びこの地を訪れて寺院を再興し、西照大権現の像を安置したといわれる。 天安2年(858年)には聖宝(理源大師)が登り、厄除厄流の大護摩を修法したと伝えられている。 江戸時代には徳島藩家老稲田氏の祈願所となり、高松藩の崇敬も集め、西照大権現堂、龍王堂、護摩堂、観音堂、不動堂、弘法大師御影堂、鐘楼堂があり、ずっと下方の民家からすぐ上がったところに仁王門があり、参道には18基の鳥居があったという。また、東方山中に奥の院熊野十二社大権現があった[1]。しかし、幾度かの火災により多くは失われた。 隣接する西照神社とは神仏混淆の山岳信仰宗教施設「西照権現」として存在していたが、明治初期の神仏分離令により大瀧寺と西照神社とに分離された。 その後、大正時代のリョウガ住職の時代は栄え、大窪寺にも当住職の弟子が派遣されたと云われ、四国八十八箇所88番を打って当寺に訪れた遍路もいたことから四国総奥之院と云われた。今でも、四国別格札所巡りの遍路だけでなく健脚の遍路は当山を歩きで訪れる。 西照権現の由来:空海が弘仁六年再度訪れ祈念をしていると、白髪の翁が忽然と現れ「我是れ汝が遠祖 天忍日命神(あまのおしひのみ