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82番 奥の院、新四国曼荼羅 13番 鷲峰寺

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圓通山  鷲峰寺 四国八十八ヶ所霊場 82番 奥の院 新四国曼荼羅霊場 13番 宗派:天台宗 本尊:千手千眼観世音菩薩 御詠歌:鷲の山 谷の流れも 松風も 御法の声と 聞くぞうれしき 住所:高松市国分寺町柏原632-3 ←12番 菩提院 →14番 観音寺 寺伝によれば、奈良時代の天平勝宝6年(754年)唐僧・鑑真により建立されたという。鑑真は寺院がある山がインドの霊鷲山に似ていることから釈迦如来像を安置し鷲峰寺と名付けたと言われる。 平安時代前期の貞観2年(860年)円珍により智証大師十七檀林の一つとして清和天皇の勅願寺となった。 戦国時代の天正年間(1573年 - 1593年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭い焼亡した。その後、寺院は荒廃し仏堂が置かれるのみとなっていた。 江戸時代前期の寛文元年(1661年)高松藩主松平頼重が寺院の復興を命じ、三井寺の観慶阿闍梨を中興1世の住持として迎えた。延宝4年(1676年)に伽藍が再建された。 山門の前の駐車場に車を停めて、山門をくぐる 境内は、意外と広く、長い参道を進む 参道の先には階段があり、その上に本堂がある 本堂 護摩堂 大師堂 参道の脇には四天王収蔵庫がある 奥之院の御朱印 新四国曼荼羅霊場の御朱印

新四国曼荼羅 12番 菩提院

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五池山 菩提院 新四国曼荼羅霊場 12番 宗派:真言宗御室派 本尊:阿弥陀如来 ご詠歌:ごくらくの みだのちかひに さそわれて ぼだいのてらに くるぞうれしさ 住所:香川県綾歌郡綾川町北1033-1 ←11番 田村神社 → 13番 鷲峰寺 古来よりこの岡には、地域の祖先の霊が鎮まり、一体を治めた富豪の墓「延命古墳」が残されている。 又、今より1100年前、菅原道真公は讃岐の国司に任ぜられ、仁和三年に巡察の折り、三野郷が五穀豊穣・風雨順時でとこしなえに栄えんことを祈って、「一」の字を奉納された。そして、南北朝時代には(城)塁を構えていた。このように、古来より歴史的に存在価値のある大地である。 当院は天正年間、長宗我部元親の兵火にあい灰塵に帰した。その後、再興され天正十五年、国主生駒親正公は讃岐十五カ院(真言宗)を設定、延命院勝楽寺と号され、古刹の保護に努めたと記されている。 正月には七福神(毘沙門天)参りと共に「一字」一願成就ご利益参りも有名である。  境内の入口 大師像 本堂 大師堂 御朱印

79番 奥の院 不動の滝

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金華山 天皇寺 摩尼珠院(城山不動滝) 四国八十八ヶ所霊場 79番 奥の院 不動の滝 廃寺跡であり、天皇寺の南1.5kmにある城山(きやま)山頂近くの滝の脇に北向き不動明王石像が鎮座している。 その周辺には、不動明王石像が祀られた小さい岩窟があり、また、弘法大師像など数体の石像が祀られている。 滝は不動川となり、天皇寺の参道を横切って瀬戸内海にそそぐ。 『四国遍路ひとり歩き同行二人【地図編】』に場所は記載されているがルートの記載が無く、行き方が分からなかったので天皇寺の納経所で、奥の院の御朱印を頂いた時に、行き方を教えてもらった。 国道11号金山トンネルから、高松よりに「高松カントリクラブ城山コース」の看板がある場所を曲がる 未舗装道を50mのところに車を止めて登っていく 登山道は整備されていて歩きやすい 不動川沿いを登っていく この川は天皇寺の参道を横切って瀬戸内海に流れる 段々、勾配がキツくなってくる 途中、砂防ダムがあり、さらに30分ほど、自然石の石段をつづら折に不動川沿いに登り切った所に建物が見えてきた。 下から見えていたのは不動堂 更に少し登ると滝が見えてきた 滝の手前には大師像等の構造物が並んでいる 更に進むと見事な岩壁に滝が流れている 滝行もできそうな感じ。 滝の脇に石の不動明王坐像 滝から道は、更に延びて分岐がある 5分ほど進めば大師修行洞 左折して登っていくと城山温泉 不動の滝からの眺め 大師修行洞の方へ進むと、上の方に何か見えてきた 大師修行洞に到着 大師修行洞からの眺め 79番 天皇寺の納経所で頂いた御朱印

79番 元札所 白峰宮

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白峰宮 四国八十八ヶ所霊場 79番 元札所 保元の乱(1156年)によって讃岐国へ配流された崇徳上皇は、長寛2年(1164年)に崩御するまでの9年間を讃岐で過ごした。上皇の崩御後、遺体を当地の清水に浸しておいたところ毎夜この辺りから神光が輝いたことから、二条天皇の宣旨を受け長寛2年(1164年)に造営されたと伝える。後嵯峨天皇の時代には荘園などが施入されている。 江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮・崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、金華山妙成就寺摩尼珠院と一体の存在として四国八十八ヶ所の79番札所であった。 摩尼珠院は行基が創建し、空海(弘法大師)が再興したと伝えられ、崇徳上皇もよく訪れたという。崇徳天皇社が創建されてからしばらく後、後嵯峨天皇の宣旨によりその別当寺となり「天皇寺」と称するようになった。 しかし、明治の神仏分離の折、崇徳院御霊は京都白峯神宮へと戻り、崇徳天皇社は白峰宮となり、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となっている。 また、その時に摩尼珠院は廃寺とされたが、明治20年に筆頭末寺の高照院がその跡に移転し、天皇寺を再興して札所を引き継いだ。現在、白峰宮の三ツ鳥居(三輪鳥居)から社殿に向かう参道の両脇に天皇寺高照院の境内がある。なお、三ツ鳥居には享保19年(1734年)衆力合成惣氏子中と刻まれている。 両側に袖鳥居を持つ「三つ鳥居」と呼ばれる珍しい様式のどっしりとした風格ある構えの鳥居から境内に入ると、手前の敷地の左側に四国八十八ヶ所霊場79番 天皇寺高照院の本堂と大師堂があり、右側には納経所、参道の正面に白峰宮という当時の神仏習合が色濃く残る配置となっている 79番 高照院 天皇寺 鳥居から真っ直ぐ進んだ敷地にある白峰宮 左側には社務所の建物があるが使われてない感じ 白峰宮の隣のプレハブに宮司宅の案内が貼られていた 自分は、先に天皇寺の納経所で、白峰宮の御朱印を宮司宅で頂ける事を聞いていたので、訪問してみた 白峰宮の右側を通り抜けると宮司宅のあり、更に進むと八十場の泉がある この泉には、次のような伝説がある。景行天皇の御代、瀬戸内海の大きな悪魚(海賊だといわれている)を征した日本武尊の皇子、讃留霊王(さるれおう)とその88人の兵士が悪魚の毒にあたって倒れたが、この泉の水を飲んで、全員甦ったといい、八十甦(やそば)の水、八十八場

新四国曼荼羅 15番 顕正寺

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藤井山 九品院 顕正寺 新四国曼荼羅霊場 15番 宗派:真言宗大覚寺派 本尊:大日如来 ご詠歌:石垣に とどめしひかり 今もなお 如来の知恵で 守るぞ鬼門 住所:香川県丸亀市土居町2丁目10-9 ←14番 観音寺 →16番 松尾寺 丸亀城の濫膓は慶長二年に起った。生駒親王が入封し、五年の歳月をかけて完成した。その嫡男一正の代に一国一城制の武家法度によって廃城となる。 顕正寺は丸亀城の鬼門除けに建立された。慶長二年(1597)のことである。憶うに、顕は験に通じ、親正の一宇を冠したことに丸亀城との関わりを垣間みた。 生駒氏四代のあとを嗣いだのが山崎家治である。寛永十八年に城を築き、高松藩における西讃の要とした。こうした挙措は松平を名乗る御家門が幸いしたのだろう。 顕正寺も頗る子熾盛した。秘伝の像からそれを窺うことができる。 現在、昔日の跡をとどめていないが、御堂には大日如来を本尊に、不動明王、弘法大師像を安置し、他に、愛染明王と毘沙門天を合祀していた。ところが最近の調査で古仏とわかり、災害を恐れて本寺の収蔵庫に移し、像の安寧を図ったという。 軽四がギリギリ通れる舗装路を抜け、境内の横の駐車場に車を停めて、境内に入る あとで分かったのは、こちらは裏手で反対側の方が道は広いという事 山門 納経は本堂の中で 御朱印