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新四国曼荼羅 24番 宗林寺

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無量寿山 宗林寺 新四国曼荼羅霊場 24番 宗派:真言宗大覚寺派 本尊:阿弥陀如来 所在:香川県観音寺市豊浜町大宇和田浜1289 ←23番 琴弾八幡宮 →25番 光厳寺 宗林守は鎮守ノ森を境にしてあった。 平地の境内に白衣観音像が屹立し、台座に平和観音と刻む。作者は長崎に平和像を彫刻した北村西望その人である。 これは「四国古寺を往く」の一節であるが、社会の静さは万人が望むところ。阿弥陀仏の誓願に、光青二無量ノ願がある。 これは際限ない仏の光明と無量において、衆生を救う因願であ るが、観音菩薩は慈悲門を司るという。 そういえばこの寺の本尊は阿弥陀如来である。白衣観音は脇侍が出世し、利益応化の姿を現すのか。曽遊に際して実感した。 秘仏に不動明王、毘沙門天、地蔵菩薩像を安置し、護摩堂に五智如来を奉安したのも稀である。こうした祈りの原形を東寺に留める。真云口密教の正鵠を表すものといえよう。 豊浜町史に、和銅年間(708)行基菩薩が開山したことを書す。鎌倉時代に北条執権の崇信があった神仏習合の古寺である。 豊浜八幡神社の参道に面した門から入ると、左手に本堂があり、本堂の南東側に平和観音の像が安置されている。また、北側には豪壮な庫裡がある。香川県の保存木に指定されているクロガネモチは、その庫裡の入り口近くに立っている。 樹皮には傷痕の盛り上がったコブ状の突起が多い。また、枝葉は四方に広がっており、樹形のよく整った見事な巨木である。なお、ここで指定されているクロガネモチは雄株のため、実はつけない。ちなみに雌株は山門の南にあり、冬になると真紅の実をつける。 山門 平和観音 本堂 駐車場から見える塔には行き方が分からなかった 御朱印  

新四国曼荼羅 25番 光厳寺

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大悲山 光厳寺 新四国曼荼羅霊場 25番 宗派:高野山真言宗 本尊:十一面観世音菩薩 所在:愛媛県四国中央市金生町山田井1425 ←24番 宗林寺 →26番 真観寺 燧灘に面した川之江市の立地は、余生川の沖積平野が発達した所である。 奈良時代、既に都から伊予同府に通じる太政官道が敷かれ、宿駅が設けられてあった。一方、ここを起点に阿波、土佐へ至ったことから江戸期は天領となり、代官所の支配下にあった。この為、中央との文化交流は盛んで、光厳寺の誕生仏にその跡をみる。 昔は、これより約二丁ほど奥の寺ノ谷に在り、長福寺と称し ていた。 現在地へ移転したのは定でないが、説に長宗我部氏の兵火に遭ってからだという。寺史に初見するのは宝暦九年(1759)に遷化した宝厳上人を初代とする。 恐らく、中興開山だと思われるが、時代の変遷にあって古記録を失ったのが惜し まれる。 境内は山門から奥に、このほど見事な御堂が再建された。 本尊に十一面観音を安置。嚇灼とした信仰が窺える。 高速道路の橋脚の側を通りながら光厳時へ 本堂 大師堂 御朱印

新四国曼荼羅 26番 真観寺

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豊岡山 真観寺 新四国曼荼羅霊場 26番 宗派:高野山真言宗 本尊:聖観世音菩薩 所在:愛媛県四国中央市富郷町寒川山207 ←25番 光厳寺 →27番 新長谷寺 伊予三島の起こりは、その昔、越智玉澄が国同として下向したとき、大三島より大山祇神社を勧請したことに依る。 燵灘に面して開けた都ではあるが、背後を塞ぐ法皇山の向こう側に秘境の富郷渓谷がある。 真観寺はその一隅にあり、僻邑に平家落人の伝説がある。 寺域はそれほど広くないが、縁起は頗る古いものを伝えていた。伊予三島市に譲る。 口碑に白鳳時代(650年以後)僧行基諸国遊歴の途次、霊夢により創建したという。 その後、宝徳三年(1451)法尊律師の代、本之庄竹林寺焼欠に伴い真観寺に合寺。 当時、本之庄は土佐街道の宿場町として栄え、一説に、僧行基がここを通って高知へ向かったと仏えられている。 不運は寛政八年に焼失。明治十八年には暴風雨で諸堂倒壊。つづいて近年に皇山が崩壊して本坊を殿した。この不幸にもめげず、その都度復興に努めたという。例えば、昭和六年の石垣改修には、檀た徒1200名が奉仕したとある。 新長谷寺の山門から本堂までの細い舗装路の途中に分岐があったので、新長谷寺で、その分岐から真観寺に行けるのか聞くと、歩きなら行けるけど車なら高速道路の側道を通って県道319号線を行く方が良いとの事だったので、素直に従う 金砂湖の横を通り真観寺へ 駐車場に車を停め階段を登ると本堂 本堂 御朱印

新四国曼荼羅 27番 新長谷寺

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豊岡山 新長谷寺 新四国曼荼羅霊場 27番 宗派:高野山真言宗 本尊:十一面観世音菩薩 所在:愛媛県四国中央市寒川町3214 ←26番 真観寺 →28番 三福寺 今から約1200年以上も昔の西暦714年、西国第八番の長谷寺(奈良県桜井市)の本尊を造刻するにあたり、試(こころみ)に造られた6尺2分の十一面観世音菩薩がこの寺の本尊。 その慈眼は慈母の如く威容は雲を起し雨呼ばんとする妙相で、見る人は自ずから礼拝する有様で、その尊像を浪華の浦より小舟に乗せて流した。 寒川江之元(さんがわえのもと)の黒岩海岸に漂着し、この事が宮中に伝えられると一大伽藍が724年に造立された。 その後、山津波や山火事にあいながらも、奇跡的に難をのがれ今日に至る。 山門から本堂まで、車でも、かなり登る 山門横には舗装路があるが、かなり細いので、山門の改修工事をしていた職人さんに、上まで車で登っても大丈夫か思わず聞いてしまった 本堂 本堂の奥にはユースホステルがあった 境内からの眺め かなり高い場所なので眺めが良い 御朱印

新四国曼荼羅 28番 三福寺

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豊岡山 三福寺 新四国曼荼羅霊場 28番 宗派:高野山真言宗 本尊:阿弥陀如来 所在:愛媛県四国中央市土居町津根2041 ←27番 新長谷寺 →29番 明正寺 はじまりは、弘法大師四国巡錫の砌、当地に立ち寄られた時、人々は大師に教えを伝い、その徳を慕って草堂を建立し礼拝するようになったのが始まりと伝う。 その後、幾多の変遷を経て、平安末期に阿弥陀如来を安置、次いで薬師堂を興し、厄除け大師の信仰を篤くした。 然し、天正年間の兵火に焼失、近隣の常徳寺、福泉寺等を併合し再建したのが現在の三福寺である。 境内は松を中心に三百年前の庭園が苔むし、寺宝には鎌倉時代写本の大般若経六百巻がある。 目・耳に利く厄除薬師如来も安置している。 山門 本堂 御朱印

新四国曼荼羅 29番 明正寺

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龍宝山 明正寺 新四国曼荼羅霊場 29番 宗派:真言宗善通寺派 本尊:聖観音菩薩 所在:愛媛県新居浜市黒島二丁目7-70 ←28番 三福寺 →30番 萩生寺 1200年前、斉明天皇と大田姫(大海人皇子の妃)が船で九州行幸の途中、黒島沖で姫が産気ずかれこの地に上陸、黒島神社に祈念すると皇女を出産された。その約60年後越智氏により西法寺が当地に建立され黒島神社とともに、安産祈願の寺になる。その後、寛永20年に高野山龍光院を通じて明正天皇の病気平癒祈願の祈祷を修するよう命令が下り、その時より明正寺と改められる。 文化5年の大火により全山焼失するも、明正天皇の尊儀(位牌)と本尊および数点の寺宝が持ち出された。 新居浜の海の近くにある明正寺 本堂 薬師堂 御朱印

新四国曼荼羅 30番 萩生寺

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白王山 萩生寺 新四国曼荼羅霊場 30番 宗派:高野山真言宗 本尊:聖観音菩薩 所在:愛媛県新居浜市萩生2635番地 ←29番 明正寺 →31番 王至森寺 建久年間 (1190 – 1199) に、後鳥羽上皇の勅願によって建立された。本尊は快慶作と云われている。萩生治郎丸本田に創建されたが、天正13年兵火により焼失後、現在地に慶長年間に再建された。 現在の本堂は弘法大師入定1150年を記念して建てられ、地下にはインドの四大仏跡と西国霊場と四国八十八ケ所のお砂踏み霊場がある 山門 山門で鐘を見上げると天井絵があった 山門の正面に「弘法大師像」 裏側は「秘鍵大師」 御朱印

新四国曼荼羅 31番 王至森寺

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法性山 王至森寺 新四国曼荼羅霊場 31番 宗派:真言宗御室派 本尊:大日如来 所在:愛媛県西条市飯岡3021 ←30番 萩生寺 →32番 極楽寺 寺伝によると、舒明天皇(じょめいてんのう・在位629~41)が道後温泉へ行幸の途中、燧灘で暴風雨に遭い、この時、森の中の寺で難を避けた故事に因み王至森寺と称したという。伝説に、森の木を大阪小松藩が御庫屋敷の建材に用いたところ、毎夜、帰りたいと泣くような音がするので川へ流した。月日を経て現在の戻川に流れ着いたことから地名に転じたという。鎮守法性大権現の別名は大威徳明王。牛に跨り、忿怒相を現す慈と威の像で篤い信仰があった。 山門の扁額「法性山」は小松藩三代 一柳頼徳 の筆跡である。一柳頼徳は名君と称せられ、当時三百諸侯きっての能筆家であった。裏山に西国三十三番札所があったが、最近境内へ移して祀っている。 山門 山門を潜ると、左に鐘楼右に本堂、正面に大師堂 本堂 大師堂 駐車場から見える「平和の塔」 御朱印

新四国曼荼羅 32番 極楽寺

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九品山 極楽寺 新四国曼荼羅霊場 32番(阿弥陀三尊) 四国三十六不動尊霊場 23番(波切不動) 宗派:石鎚山真言宗 本尊:阿弥陀三尊・石鎚蔵王大権現 所在:愛媛県西条市大保木4-36 ←31番 王至森寺 →33番 清楽寺 寺伝によると、西暦680年頃役の行者が石鎚山を仰ぎ見ることのできる龍王山に籠り、不動ヶ滝に身を清め修行をされ、阿弥陀三尊と三体の石鎚権現を本尊とする天河寺(てんがじ)を開基し、平安時代から室町時代に至るまで隆盛をきわめた。 ところが、室町時代末期になり、戦国の兵火で1350年天河寺は炎上、その時の住職行善大徳は、その弟子宥法師に天河寺の法灯を継続する地を探すよう命じ自らは遷化した。そして、宥法師は龍王山を仰ぎ見ることのできるこの地を探し出し堂宇を建立し極楽寺と名づけ法灯を守った。 その後、天河寺焼け跡から本尊であった三体の石鎚蔵王権現のうち中尊の「金剛蔵王権現」が掘り出され蔵王殿本尊として祀られた。 極楽寺になって二度の火災により寺宝も多く焼失したが権現像は守られ、現在に至るまで石鎚金剛蔵王権現の御前にて護摩焚きが朝夕行われている。 2014年失われていた両脇尊である「龍王吼(りゅうおうく)蔵王権現」「無畏宝吼(むいほうく)蔵王権現」が新調され三体が揃った。 明治時代 神仏分離令 により、石鎚権現を奉斎する石鈇山蔵王権現 別当 ・ 前神寺 と石鈇蔵王権現社別当 横峯寺 が廃寺(その後復興)となった時に当山は廃寺とならず、石鎚信仰が続いてきた。 歩き遍路で石鎚山から63番 吉祥寺に向かっている時に前を通ったが、参拝する元気が無く、スルーしていた寺院。 四国三十六不動尊霊場は、コンクリートの建物のすぐ横だが、新四国曼荼羅霊場は、この階段の上 遠目からは、どこまで続いているのか木に隠れて見えない 近づいてみると、かなり続いてる・・・ 登って分かったのが、階段の上に見える山門は、本堂までの中間地点 久々に息切れしながら登り切ると、正面に本堂 本堂 本堂から降りてきて、コンクリートの建物の廊下を進むと納経所がある 御朱印